小宮山昌友
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小宮山昌友(こみやま まさとも)は武田家の重臣で、侍大将の地位にあった。
また、信濃国諏訪および上野国松井田城の城代も務めた。
昌友は元亀3年(1572年)の遠江国二俣城の戦いにおいて戦死した。その後、家督は長男の友晴が継承し、同じく侍大将の地位に就いた。
出自
小宮山氏の出自については、藤原姓説と清和源氏説の二つの系統が伝わっている。
藤原姓説
この系統は信濃国出身とされ、小宮山近江守氏継の次男である六郎氏久が甲斐国に移住し、武田信昌に仕えたことに始まる。昌友はその子にあたるとされる。
清和源氏説
一方、昌友の弟とされる土佐守忠房の系統については、清和源氏義光流逸見氏族の出身とする説がある。この系統によれば、民部少輔信安が佐久郡小宮山郷を拠点とし、その四代後の子孫にあたる備前守昌清が武田氏に仕えるようになったとされる。この説では、昌友・忠房は昌清の子とされている。
両説とも信濃国から移住した氏族であるという点では一致している[1]。
出典
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