宗夬とは? わかりやすく解説

宗夬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/21 01:09 UTC 版)

宗夬(そう かい、456年 - 504年)は、南朝宋からにかけての政治家軍人は明揚。本貫南陽郡涅陽県。

経歴

西中郎諮議参軍の宗繁(宗炳の子)の子として生まれた。若くして学問にいそしみ、弱冠にして郢州の秀才に挙げられて、臨川王常侍・驃騎行参軍をつとめた。斉の竟陵王蕭子良が西邸に学士を集めると、宗夬もこれに参加した。永明年間、北魏との和親のため、尚書殿中郎の任昉とともに北魏の使者の接待にあたった。

南郡王蕭長懋の下で管書記をつとめた。永明11年(493年)、文恵太子蕭長懋が死去すると、その子の蕭昭業皇太孫となったため、宗夬はそのまま管書記となった。蕭昭業が即位すると失政が多かったため、宗夬は自ら申し出て秣陵県令に降格し、尚書都官郎に転じた。隆昌元年(494年)7月、蕭昭業が殺害されると、その寵遇を受けた者たちの多くは禍難に遭ったが、宗夬と傅昭のみが免れた。

建武元年(494年)10月、明帝が即位すると、宗夬は郢州治中となった。永元元年(499年)、南康王蕭宝融荊州刺史となると、宗夬は召されて別駕となった。永元2年(500年)、蕭衍が起兵すると、別駕のまま西中郎諮議参軍に転じた。蕭衍の軍が雍州を発つと、宗夬は蕭穎冑の指示で楊口から出て、蕭衍に面会して戦略を相談し、軍資の護送にあたった。中興元年(501年)、御史中丞に転じたが、父が死去したため職を辞した。冠軍将軍・衛軍長史として再び起用された。天監元年(502年)、冠軍将軍のまま征虜長史・東海郡太守に転じた。天監2年(503年)、太子右衛率として召された。この年の冬、五兵尚書に転じた。

天監3年(504年)、死去した。享年は49。

子の宗曜卿が後を嗣いだ。

伝記資料





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宗夬」の関連用語

1
12% |||||

2
12% |||||

3
6% |||||

宗夬のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宗夬のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宗夬 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS