和思趙皇后とは? わかりやすく解説

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和思趙皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/17 04:44 UTC 版)

和思趙皇后(かしちょうこうごう、? - 675年)は、中宗の親王時代の正妃。父は趙瓌。母は李淵の娘である常楽公主。皇后位を追贈された。

生涯

中宗の周王時代に妃となった。高宗は、叔母であり姻親でもある常楽公主を厚遇した。武則天はこれを不快に思い、怒りを趙妃にぶつける。上元2年(675年)、武則天によって廃位されて宮中に幽閉される。数日経ってから見に行くと、趙氏は既に飢え死んで腐っていたという。

娘の惨死に対して常楽公主夫婦の憤激と悲嘆は激しく、この悲劇がのちに趙瓌が宗室の乱で越王李貞に属する元となる。李貞は乱を起こしたが失敗し、公主夫婦は共に殺された。

神龍元年(705年)、武則天が退位して中宗が再即位し、身位を回復されて、当初は恭皇后の諡号を追贈された。その後、韋后が庶人に落とされたため、代わりに元妃の趙氏が招魂の礼で中宗と合葬された。

伝記資料




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