ライナー・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/16 14:50 UTC 版)
Jump to navigation Jump to searchライナー・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ(Rainer Prinz von Sachsen-Coburg und Gotha, 1900年5月4日 プーラ - 1945年3月25日 ジェムレー)は、オーストリアの軍人。ザクセン=コーブルク公爵家のカトリック系分家コハーリ侯爵家の公子。
生涯
ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アウグスト・レオポルトとその妻のオーストリア=トスカーナ大公女カロリーネの間の第4子、次男として生まれた。正式な洗礼名はライナー・マリア・ヨーゼフ・フローリアン・イグナティウス・ミヒャエル・ガブリエル・ラファエル・ゴンツァーガ(Rainer Maria Joseph Florian Ignatius Michael Gabriel Raphael Gonzaga)である。
1916年以降、父とともにハンガリーで最も裕福な地主貴族の1つコハーリ侯家の家督を継ぐことが予定されていた。ところが二重帝国崩壊後の1921年に死去した大伯父のコハーリ侯フィリップは、遺言でライナーの1歳年下の弟フィリップ・ヨシアスを長子相続財産の相続者と定めたため、ライナーは家督を継ぐことができなかった。
1930年9月20日、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)・シュタイアーマルク州支部で入党手続きを行い、同党の30万354番目の党員となった[1] 。弟エルンスト(1907年 - 1978年)、妹レオポルディーネ(1905年 - 1978年)も同党に入党している[2]。
1945年3月、ブダペスト郊外ジェムレーで戦死したと推定されている。1961年5月19日にミュンヘン簡易裁判所の出した法的死亡宣告によれば、死亡日は1945年12月31日である[3]。
子孫
1930年12月15日にミュンヘンで、ヨハンナ・カーロイ・デ・カーロイ=パティ(1906年 - 1992年)と結婚し1935年に離婚。1940年2月13日にブダペストで、エーディト・デ・コージョル(1913年 - 1997年)と再婚した。最初の妻との間に息子が1人ある。
- ヨハネス・ハインリヒ・フリードリヒ・ヴェルナー・コンラート・ライナー・マリア(1931年 - 2010年) - 1957年男爵令嬢マリー・ガブリエーレ・フォン・フュルステンベルクと結婚(1968年離婚)し一女、1968年ザクセン王女マティルデと再婚(1993年離婚)し一男をもうける。
- ヨハネス・アルベルト・レオポルト・フリードリヒ・クリスティアン(1969年 - 1987年) - 母方伯父のマイセン辺境伯マリア・エマヌエルから旧ザクセン王家次期家長に指名されたが、18歳でスキー事故死。
1944年の弟フィリップ・ヨシアスの婚姻は家内法により貴賤結婚と見なされたため、コハーリ侯家の家督はライナーの子孫に戻ったと考えられていた。2010年、ライナーの息子ヨハネス・ハインリヒが死去すると、コハーリ侯の称号を名乗る資格は分家筋の元ブルガリア王シメオン2世に渡った。2012年、シメオン2世は姉マリヤ・ルイザにコハーリ侯位を譲った。
参考文献
- Ernst Klee: Das Kulturlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945. S. Fischer, Frankfurt am Main 2007, ISBN 978-3-10-039326-5.
外部リンク
引用・脚注
- ^ Ernst Klee: Das Kulturlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945. S. Fischer, Frankfurt am Main 2007, ISBN 978-3-10-039326-5, S. 505.
- ^ Petropoulos, Jonathan (2006). Royals and the Reich: The Princes von Hessen in Nazi Germany. New York: Oxford University Press. p. 385 .
- ^ http://www.promonarchie.de/GothaAbteilung1-2004.pdf, S. 135.
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