フリーデリケ・フォン・グンペンベルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/27 07:28 UTC 版)

フライイン(女男爵)・フリーデリケ・ヴィクトリア・マリアーナ・オッティーリー・フォン・グンペンベルク(Freiin Friederike Viktoria Mariana Ottilie von Gumppenberg, 1823年8月3日 ミュンヘン - 1916年1月21日 ミュンヘン)は、南独バイエルン王国の貴族女性・宮廷女官。
フランツ・フォン・グンペンベルク男爵(1780年 - 1857年)とその妻のテレーゼ・フォン・タンネンベルク=トラッツベルク女伯爵(1787年 -1836年)の間の娘。フライジンク大司教カール・アウグスト・フォン・ライザッハ枢機卿は従兄にあたる。1842年にバイエルン王家に輿入れした王太子妃マリー・フォン・プロイセンの女官に選ばれる。彼女の美貌は王太子妃の舅であるバイエルン王ルートヴィヒ1世の目に留まった。翌1843年、王命を受けた宮廷画家ヨーゼフ・カール・シュティーラーの手になる彼女の肖像画が、女主人のマリー王太子妃のものと同時期に制作された。王太子妃と女官の2枚の肖像画は共にルートヴィヒ王のコレクションとして、ニンフェンブルク宮殿内の美人画ギャラリーに収蔵された。
マリーが1848年革命で王妃となった後も仕え続けたが、父の弟の陸軍大臣アントン・フォン・グンペンベルクの息子ルートヴィヒ・フォン・グンペンベルク(1818年 - 1883年)と1857年に結婚し、宮仕えを退いた。女官としての功労から、バイエルン王室のテレジア勲章及び聖エリーザベト勲章を受章している。婚家が所有するオーバープファルツ地方のダイニンク城で後半生を送った。夫との間の一人息子マクシミリアン・フォン・グンペンベルク(1858年 - 1889年)は30歳の若さで他界したが、その息子オットマー・フォン・グンペンベルク(1888年 - 1958年)がダイニンク城の城主を継ぎ、終生この城を保有した[1] 。ダイニンク城は1961年グンペンベルク家の手を離れた。
シュティーラーによる肖像画中のグンペンベルクは、山地を背景にして、赤いローブをまとい、単純なセンター分けを途中でカールさせた黒髪を両頬に垂らし、澄んだ目をまっすぐ鑑賞者に向けている。
引用・脚注
- ^ freyhammer. “Die schöne Friederike” (ドイツ語). Miszellen zur Oberpfalz. 2023年11月9日閲覧。
- フリーデリケ・フォン・グンペンベルクのページへのリンク