ニコラス・デ・ヘルト・シュトカーデ
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ニコラス・デ・ヘルト・シュトカーデ
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Nicolaes de Helt Stockade | |
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Cornelis de Bieの著書にある肖像画 (1662)
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生誕 | 1614年 ナイメーヘン |
死没 | 1669年11月26日 アムステルダム |
ニコラス・デ・ヘルト・シュトカーデ(Nicolaes de Helt Stockade、1614年 - 1669年11月26日)は17世紀オランダの画家、版画家である。パリやアムステルダムで働いた。
略歴
現在のドイツとの国境に近いオランダの街ナイメーヘンに生まれた。アントウェルペンの画家ダニエル・ライカールト(Daniël Rijckaert)の弟子であったとされる。フランスに移り、リヨンでアントウェルペン出身の女性と結婚し、ヤン・アセレインの義理の兄弟となった。パリではフランス国王ルイ13世(1601-1643)の宮殿で働いた。1646年にアントウェルペンの聖ルカ組合の親方となった。再びパリやナイメーヘンで働き、スウェーデン女王クリスティーナ(1626-1689)やイギリス国王チャールズ2世(1630-1685)からの注文も受けた。
1652年にアムステルダムに移り、画家のバルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト(1613-1670)や詩人のトマス・アセレイン(Thomas Asselijn:c.1620-1701)、アムステルダム市長のヨハン・ホイデコパー・ファン・マールセフェーン(Johan Huydecoper van Maarsseveen)らと交流した[1]。アムステルダムの新しい市庁舎(現在のPaleis op de Dam)の装飾画の注文も受けた。アムステルダムの実業家の邸(Trippenhuis)の装飾画も描いた[2]。
18世紀初めに画家の伝記を出版したアルノルト・ホウブラーケン(1660-1719)によれば、有名な詩人ヨースト・ファン・デン・フォンデル(1587- 1679)の詩の題材になった[3]。
1699年にアムステルダムで亡くなった[4]。
作品
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Paleis op de Damの装飾画「エジプト人に穀物を売るヨセフ」(1656)
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「狩猟の女神ディアナ」(1654)
ヒューストン美術館 -
「ホロフェルネスの首を持つユディト」(1650)
脚注
- ^ https://www.dbnl.org/tekst/frij005bevo01_01/frij005bevo01_01_0008.php
- ^ https://web.archive.org/web/20110928122847/http://www.bma.amsterdam.nl/monumenten/beschrijvingen/trippenhuis
- ^ Arnold Houbraken, « Nikolaas de Helt Stokade » in De groote schouburgh der Nederlantsche konstschilders en schilderessen, 1718.
- ^ "Fiche de Nicolaes van Helt Stockade". rkd.nl (英語). 2018年5月4日閲覧。.
参考文献
- Arnold Houbraken, « Nikolaas de Helt Stokade », dans Le Grand Théâtre des peintres néerlandais, vol. 3, p. 364-365 (lire en ligne [archive]).
- Cornelis de Bie, Het Gulden Cabinet, p. 312.
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