サナトゥルク2世とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > サナトゥルク2世の意味・解説 

サナトゥルク2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/05 15:30 UTC 版)

サナトゥルク2世
Sanatruq II
ハトラ
ハトラの王、サナトゥルク1世またはサナトゥルク2世の像 イラク国立博物館
在位 200年頃 - 241年

配偶者 Abbu
子女 Abdsamiya、Mana、Duspari
王朝 ハトラ
父親 アブサミヤ
テンプレートを表示

サナトゥルク2世アラム語 (ハトラ方言)英語版:𐣮𐣭𐣨𐣣𐣥𐣲 snṭrwq、Sanatruq II)は、ハトラ(現在のイラク北部のニーナワー県モースルの南西約100km)の王。

略歴

サナトゥルク2世は古代都市ハトラの最後の王で、西暦200年頃から240/41年頃まで統治していた。サナトゥルク2世はアブサミヤ王の息子であり、ハトラで発見された9つの碑文に記されている。これらの碑文のうち2つだけが年号が書かれているが、両方とも解読が難しい(多分231と237/38)[1]。サナトゥルク2世はシリアの資料ではサナトゥルクとして、アラブの資料ではダイジアンとサティルンとして登場する。

彼の碑文の一つは、サナトゥルク2世の立像から発見された。彼の妻はおそらくAbbuだった。二人の息子が知られている。アブサミヤは彼の祖父にちなんで名付けられ、サナトゥルク2世の相続人だった。もう一人の息子であるマナは235年に記録されており、彼の支配下にArabia of Wal(エデッサの南東の地域)があった模様。後者の証拠からサナトゥルク2世が領土を拡大したと思われる[2]。娘Duspariは、549年(=AD238)の日付が付いた像から知られている。第二の像は彼女の娘Samayのものである[3]

サナトゥルク2世の下で、ハトラはローマの属国となった。AD 226/227年頃、サーサーン朝は成功せずに都市を攻撃したが、最終的に征服(ハトラの没落英語版)され、サーサーン朝によって破壊された(おそらくAD 240/41年頃)[4]

脚注

  1. ^ Maurice Sartre: The Middle East under the Romans, 346
  2. ^ Maurice Sartre: The Middle East under the Romans, 346
  3. ^ H. E. Mathiesen: Sculpture in the Parthian Empire. Aaarhus University Press, Aarhus 1992, ISBN 87-7288-311-1, p. 205-206, 211
  4. ^ Hatra, on Iranica.com

出典

  • Michael Sommer: Hatra. Geschichte und Kultur einer Karawanenstadt im römisch-parthischen Mesopotamien. von Zabern, Mainz 2003, ISBN 3-8053-3252-1, p. 24.
  • Maurice Sartre: The Middle East under the Romans, 2005 ISBN 978-0-674-01683-5, p. 346



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  サナトゥルク2世のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「サナトゥルク2世」の関連用語

1
アブサミヤ 百科事典
34% |||||

サナトゥルク2世のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



サナトゥルク2世のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのサナトゥルク2世 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS