コンスタンチン・オリゴヴィチとは? わかりやすく解説

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コンスタンチン・オリゴヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/05 09:47 UTC 版)

コンスタンチン・オリゴヴィチロシア語: Константин Ольгович、? - 1215年もしくは1226年)は、チェルニゴフ・オレグ家(ru)[注 1]出身の13世紀前半のルーシのクニャージ(公)である。『リューベチ・シノディク』にその名が記されており、それによれば、オレグ(ru)の子のうちの1人で、チェルニゴフ「大公」(ヴェリーキー・クニャージ)であったと記されている。推定される公位と在位期間はチェルニゴフ公:1206年 - 1207年、1210年 - 1215年。もしくは1223年 - 1226年。

生涯

V.タティシチェフ(ru)は、1210年 - 1215年と、フセヴォロドキエフ大公位にあった1206年 - 1207年の間に、チェルニゴフ公であったリューリクという人物は、スモレンスク・ロスチスラフ家[注 2]出身のリューリクではなく、本項のコンスタンチン(コンスタンチンは聖名であり、出生名はリューリク)であると論じている。R.ゾトフ[1]、A.ピャトノフ[2]もまたこの説を部分的に支持している。しかしこの説に従うならば、コンスタンチンはグレプムスチスラフの2人のおじの生存中にチェルニゴフ公位にあったことになり、当時の継承法(ru)に反することになる。

また、A.ゴルスキー(ru)の説によれば[3]、コンスタンチンはカルカ河畔の戦いでおじのムスチスラフ(上記のムスチスラフ)が死亡した1223年から、1226年にかけてチェルニゴフ公位にあったとされる。さらに、ミハイルオレグ(両名ともに、この期間のチェルニゴフ公として挙げられる人物である。)がチェルニゴフ公国の支配権をかけて争ったのは、ムスチスラフの死の直後のことではなく、1226年のことであると論じている。

脚注

注釈

  1. ^ 「チェルニゴフ・オレグ家」は便宜的な名称である。チェルニゴフ公オレグ(ru)の子孫であり、チェルニゴフ公ノヴゴロド・セヴェルスキー公等のチェルニゴフ公国とその分領公国を統治した家系を指している。詳しくはru:Ольговичиを参照されたし。
  2. ^ 「スモレンスク・ロスチスラフ家」は便宜的な名称である。スモレンスク公ロスチスラフの子孫であり、12世紀前半から15世紀初頭(滅亡)までのスモレンスク公国を統治した。詳しくはru:Рюриковичи#Ростиславичи Смоленские и князья Ярославскиеを参照されたし。

出典

  1. ^ О черниговских князьях по Любецкому синодику и о Черниговском княжестве в татарское время стр 57—63.
  2. ^ Борьба за киевский стол в 1210-е. Спорные вопросы хронологии
  3. ^ Горский А. А. Русские земли в XIII—XIV веках.

参考文献

  • Экземплярский А. В. Черниговские, князья // Русский биографический словарь : в 25 томах. — СПб.—М., 1896—1918.



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