クルムシ (バルラス部)とは? わかりやすく解説

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クルムシ (バルラス部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/05 09:07 UTC 版)

クルムシモンゴル語: Qurmši、生没年不詳)とは、大元ウルスに仕えたバルラス部出身の千人隊長


  1. ^ 村上1972,369頁
  2. ^ 吉野2008,24頁
  3. ^ 『元史』巻135列伝22忽林失伝,「忽林失初直宿衛。後以千戸従征乃顔、馳馬奮戈、衝撃敵営、矢下如雨、身被三十三創。成宗親督左右出其鏃、命医療之、以其功聞。世祖以克宋所得銀甕及金酒器等賜之、命領太府監。後以千戸従皇子闊闊出出征、還、留鎮軍中」
  4. ^ 吉野2009,42-44頁
  5. ^ 『元史』巻135列伝22忽林失伝,「後従成宗与海都・都瓦等戦有功、成宗嘉之、特命為翰林承旨、俄改万戸。与叛王斡羅思・察八児等戦、以功授栄禄大夫・司徒、賜銀印。武宗嘗曰『群臣中能為国宣力如忽林失者実鮮、其厚賚之』。於是遣使召見。未幾武宗崩、仁宗即位、念其旧勲、賞賚特厚」
  6. ^ 『元史』巻135列伝22忽林失伝,「子燕不倫、初奉興聖太后旨、充千戸。俄改充万戸、代其父職。尋罷、帰其父所受司徒印及万戸符於有司、仍直宿衛。致和元年秋八月、在上都、思武宗之恩、与同志合謀奉迎文宗。会同事者見執、乃率其属奔還大都。特賜龍衣一襲、命為通政院使。天暦元年九月、同丞相燕帖木児敗王禅等兵于紅橋、又戦于白浮、又戦于昌平東、又戦于石槽。帝嘉其功、拝栄禄大夫知枢密院事、以世祖常御金帯賜之」


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