エルンスト・カシミール (ナッサウ=ディーツ伯)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/08/31 22:54 UTC 版)
エルンスト・カシミールまたはエルンスト・カジミール(蘭:Ernst Casimir van Nassau-Dietz;独:Ernst Casimir von Nassau-Diez, 1573年12月22日、ディレンブルク - 1632年6月2日、ルールモント)は、ナッサウ=ディーツ伯(在位:1607年 - 1632年)、フリースラント州、フローニンゲン州、ドレンテ州の総督。
ナッサウ=ディレンブルク伯ヤン6世(ヨハン6世)とその最初の妻でロイヒテンベルク方伯ゲオルク3世の娘であるエリーザベト(Elisabeth van Leuchtenberg)の間の5男として生まれた。1607年3月30日、父の領地を兄弟と分割相続し、ナッサウ=ディーツ伯を名乗った。1620年、長兄のディレンブルク伯ウィレム・ローデウェイクが亡くなると、フリースラント州総督職を引き継いだ。その5年後の1625年にはフローニンゲンとドレンテの州総督をも兼ね、1632年に亡くなるまで務めた。
エルンスト・カシミールは八十年戦争の司令官の1人として、1627年のフロンロ包囲戦や1629年のスヘルトーヘンボス包囲戦に参加した。また、州総督として1628年にニューエスハンス(現在のバート・ニューエスハンス)の要塞を建設した。1632年、ルールモントでの戦闘中、塹壕を視察していた際に流れ弾に当たって亡くなった。
子女
1607年、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ハインリヒ・ユリウスの娘ゾフィー・ヘートヴィヒと結婚した。間に生まれた子供のうち、成人したのは息子2人だけだった。
- ヘンドリック・カシミール1世(1612年 - 1640年)
 - ウィレム・フレデリック(1613年 - 1664年)
 - エリーザベト(1614年)
 - ヤン・エルンスト(1617年)
 - マウリッツ(1619年 - 1628年)
 - エリーザベト・フリーゾ(1620年 - 1628年)
 
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: ウィレム・ローデウェイク  |  
   フリースラント州総督 1620年 - 1632年  |  
   次代: ヘンドリック・カシミール1世  |  
  
| 先代: マウリッツ  |  
   フローニンゲン州・ドレンテ州総督 1625年 - 1632年  |  
   次代: ヘンドリック・カシミール1世  |  
  
| 爵位 | ||
| 先代: 新しく創設  |  
   ナッサウ=ディーツ伯 1607年 - 1632年  |  
   次代: ヘンドリック・カシミール1世  |  
  
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