ウード_(オルレアン伯)とは? わかりやすく解説

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ウード (オルレアン伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 02:00 UTC 版)

ウード
Eudes
オルレアン伯
在位 827年 - 830年
831年 - 834年

出生 770/90年
死去 834年5月25日
配偶者 アンジェルトルド・ド・フェザンサック
子女 エルマントルド
ギヨーム
家名 ウダルリヒ家
父親 オルレアン伯アドリアン
母親 ワルトラーダ?
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オルレアン伯ウード(フランス語:Eudes, comte d'Orléans, 834年5月25日没)は、オルレアン伯(在位:827年 - 830年831年 - 834年)。マトフリード家のマトフリード1世が廃位されていた間、伯位についていた。

生涯

ウードはウダルリヒ家のオルレアン伯アドリアンの息子である[1]。母は恐らくニベルング家のワルトラーダである。ウードが最初に記録上にあらわれるのは810年、東部ザクセンの帝国総督代理としてヴェレティ族に捕らえられた時である。フルダ年代記によると、811年に伯(comes)としてヴァイキングとの間の平和条約に署名した。

『皇帝ルートヴィヒの生涯(Vita Hludovici)』によると、827年にウードは廃位されたマトフリード1世に代わりオルレアン伯となった。ウードは親族のエルベールととともに830年4月にロタール1世により追放され、オルレアンを没収された。代わりにマトフリード1世がオルレアン伯に復位した。

834年、ウードはロタール1世の支持者であったマトフリード1世およびナント伯ランベール1世と争っていた時、弟ブロワ伯ギヨーム、メーヌ伯ギー、トゥールの修道院長テオドとともに殺された。

子女

ウードはアンジェルトルド・ド・フェザンサックと結婚し[2]、以下の子女をもうけた。

脚注

  1. ^ Le Jan 2003, p. 213.
  2. ^ Jackman 2015, p. 37.

参考文献

  • Jackman, Donald C. (2015). Three Bernards Sent South to Govern II: Counties of the Guilhemid Consanguinity. Editions Enlaplage 
  • Le Jan, Régine (2003) (French). Famille et pouvoir dans le monde franc (VIIe-Xe siècle). Publications de la Sorbonne 
先代:
マトフリード1世
オルレアン伯
827年 - 830年
次代:
マトフリード1世
先代:
マトフリード1世
オルレアン伯
831年 - 834年
次代:
ギヨーム



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