クオリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 16:33 UTC 版)
論点
クオリアという主題には数多い論点があり、その全体をここで網羅しきることはできない。幾つかの代表的な論点を挙げる。
まず有名な論点として「そもそもクオリアなんてない」という非常に根本的な反論がある。こうした主張を強く行う人物として有名な哲学者としてダニエル・デネットがいる[56]。デネットの立場は消去主義的唯物論(Eliminative materialism)、または消去主義(Eliminativism)と言われる。デネットが行う主張を左側として、デネットがその論敵としている対立側を右側として、両サイドがどういった点で対立し、そしてどういう点では一致しているのか、その状況を以下に簡単に一覧する。
感覚質などない | 感覚質はある |
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脳のすべての過程は物理的・科学的な方法で説明、解明できる。 | 脳のすべての過程は物理的・科学的な方法で説明、解明できる。 |
それで、もう説明されずに残るものなどない。それで意識の全てが説明される。 | それでも説明されずに残るものがある。それがクオリアである。 |
脳の過程で説明されないクオリアというのが何のことなのか、分からない。右のような考えは素朴な直感に基づいた、誤った考え、単なる錯覚である。 | 脳の過程より何より、クオリアが在ることほど、確実なことはない。左のような主張はどこかで現象性を密輸入しているか、自己欺瞞であるか、または神経系における何らかの機能的障害であろう。 |
右のような奇妙な事をこれほど自信満々に言う人たちが、一体なぜいるのか。これには何らかの科学的な説明が必要だろう。 | 左のような奇妙な事をこれほど自信満々に言う人たちが、一体なぜいるのか。これには何らかの科学的な説明が必要だろう。 |
現象判断の過程、つまりクオリアについて判断している神経過程について科学的に研究すべきである。 | 現象判断の過程、つまりクオリアについて判断している神経過程について科学的に研究すべきである。 |
デネットからすると、クオリアがある、などという主張は錯覚でしかなく、ハードプロブレムは完全な擬似問題である。しかし質感があると確信している側は、この問題を「錯覚」として消去しようという主張は、あり得ないとして拒絶する。この点についてデネットは、これほど強い錯覚が生じるのは、それを担っている一定の神経基盤があるからだろうと論じる。心理学者ニコラス・ハンフリーもデネットと似た立場を取る[57]。ハンフリーによれば、ヒトにとって意識が不可解に思えるのは、そういう錯覚を生み出す機構が脳内にあるからであり、そして「不可解に思えること」それ自体が進化的な意味を持っている、とする。つまり意識が不可解に思えるという錯覚が、不滅の霊魂や来世といった信念の余地を残し、それにより知性を持った人間を完全な絶望からくる自殺から遠ざける、といった意味を持っただろうとする。つまり「意識を不可解であると誤解する機能」からの適応度の向上(残される子孫の数の増加)への寄与があったのではないか、とする。
逆にネド・ブロックなどは、デネットは認知に関わるある種の機能障害を持っているのではないか、という可能性を指摘する。ブロックがこうした主張を行う背景には一定の経験がある。ブロックは自身の教員としての経験から、現象性の問題を理解できない人が、なぜかは分からないが一定数いる、と語っている。ブロックによれば、大学初年度の学生に逆転クオリアの思考実験について説明すると、およそ3分の2の学生は「何を言ってるか分かる」と答えると言う。中には小さいころから自分でその問題を考えていた、という学生もいるという。しかし残りの3分の1の学生は「何の話をしているのか分からない」と答えると言う。ブロックは逆転クオリアの思考実験は、10歳に満たない自分の娘でも理解できたのに、なぜ一部の大学生に理解できないなどという事があるのか、と疑問を持つ。そしてブロックは、ある種の認知的な機能の違いが、現象性の問題の理解を妨げてるのではないかという可能性を指摘する。そしてそうした人の中から、デネットのような主張を行う人が出てくるのではないか、とする。そして、こうした機能的差異は実験的に研究できる対象であろうから、逆転クオリアのようなある種の思考実験への反応と、他のファクターとの相関を取って研究することが可能ではないか、と指摘する[58]。
こうして両サイドの主張は真っ向から食い違っているものの、現象判断の過程、つまりクオリアについて判断している神経過程について科学的に研究することが重要だ、という点では、両サイドにいる多くの論者の考えは一致している。
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