「尊王思想」を解説文に含む見出し語の検索結果(1~10/226件中)
江戸中期の兵学者・尊王論者。甲斐の生まれ。名は昌貞、号は柳荘。国学・儒学・垂加神道などを学び、江戸で大岡忠光に仕えたが、のち開塾して儒学・兵学を講じ、尊王思想を鼓吹し、幕府の忌諱に触れ死刑。(一七二五...
江戸中期の兵学者・尊王論者。甲斐の生まれ。名は昌貞、号は柳荘。国学・儒学・垂加神道などを学び、江戸で大岡忠光に仕えたが、のち開塾して儒学・兵学を講じ、尊王思想を鼓吹し、幕府の忌諱に触れ死刑。(一七二五...
読み方:おおぎまちさんじょう きんつむ江戸中・後期の勤王家。左大臣実房の子。桃園天皇に奉仕し、権大納言に進み、大宰権帥を兼ねた。王権回復を謀り、竹内式部について垂加神道を学び尊王思想を深めたが、竹内式...
読み方:おおぎまちさんじょう きんつむ江戸中・後期の勤王家。左大臣実房の子。桃園天皇に奉仕し、権大納言に進み、大宰権帥を兼ねた。王権回復を謀り、竹内式部について垂加神道を学び尊王思想を深めたが、竹内式...
読み方:あさみ けいさい江戸中期の儒者。近江生。名は安正、号は望楠軒、通称は重次郎。初め医者を業としたが、山崎闇斎に師事して儒学を修め、崎門三傑の一人と言われる。また勤王の志篤く、『靖献遺言』を著わし...
読み方:あさみ けいさい江戸中期の儒者。近江生。名は安正、号は望楠軒、通称は重次郎。初め医者を業としたが、山崎闇斎に師事して儒学を修め、崎門三傑の一人と言われる。また勤王の志篤く、『靖献遺言』を著わし...
江戸中期の神道家。越後の人。号は正庵・羞庵。上洛して徳大寺家に仕え、垂加流の神道を修め軍学を研究。のち公卿の邸に出入りして大義名分・尊王思想を説き、幕府の忌諱に触れて重追放(宝暦事件)、さらに明和事件...
江戸中期の神道家。越後の人。号は正庵・羞庵。上洛して徳大寺家に仕え、垂加流の神道を修め軍学を研究。のち公卿の邸に出入りして大義名分・尊王思想を説き、幕府の忌諱に触れて重追放(宝暦事件)、さらに明和事件...
読み方:ももぞのてんのう第百十六代天皇。御名は遐仁、初め八穂宮と称し、のち茶地宮と改められた。桜町天皇の第一皇子、母は開明門院藤原定子。竹内式部から尊王思想を学んだ烏丸光胤・坊城俊逸らは皇権復古を志し...
読み方:ももぞのてんのう第百十六代天皇。御名は遐仁、初め八穂宮と称し、のち茶地宮と改められた。桜町天皇の第一皇子、母は開明門院藤原定子。竹内式部から尊王思想を学んだ烏丸光胤・坊城俊逸らは皇権復古を志し...
< 前の結果 | 次の結果 >
>>
「尊王思想」の辞書の解説