クイーン・メリー (巡洋戦艦)
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クイーン・メリー(英語: HMS Queen Mary) は、イギリス海軍の巡洋戦艦。ライオン級巡洋戦艦の3番艦。1910年計画で建造された艦で、姉妹艦2隻とは副砲の配置などが異なっており、排水量も若干増加している。1916年5月31日、ユトランド沖海戦でドイツ帝国海軍と交戦して轟沈した[注釈 1]。 多数の戦死者を出し、その中には観戦武官の下村忠助少佐も含まれていた[注釈 2]。
注釈
- ^ a b 〔 午後四時十五分より同四十三分迄彼我兩巡洋戰艦は極めて激烈なる戰を交へたり。發砲開始より約二十五分、即ち午後四時十五分英軍の戰艦インデファチガブルに一大爆發起り沈没し、四時三十分頃には英の三番艦クイーン・メリー亦同一運命に遭遇し、英軍の状況は悲惨なりしも、英軍は少しも屈せず益〃奮戰せり。英の第五戰艦戰隊は午後四時八分漸く戰列に入り、獨の殿艦と砲火を交へしも不幸にして距離遠きに過ぎたり。[1](以下略)
- ^ 〔 五年二月九日觀戰武官トシテ英國巡洋艦「クヰン、メリー」號ニ乗組メリ當時歐洲ノ大戰酣ニシテ北海方面ハ獨逸艦隊ノ主力、時機ヲ窺フテ跳梁セントスルアリ、英國艦隊ハ獨逸艦隊ノ封鎖ニ努メ苦心至ラザル所ナク、此際忠助ノ觀戰ハ極メテ重要ニシテ協同作戰上ニ力ヲ致セルモノ必ズア多カリシナランガ、同年五月三十一日「ヂヤツトランド」沿岸沖合ニ於テ「クイン、メリー」號ハ獨逸艦隊ト會戰シ、苦闘ノ後、遂ニ撃沈ノ不幸ニ陥リ、忠助モ艦ト運命ヲ共ニシテ壮烈ナル戰死ヲ爲セリ。嗚呼有爲ノ壮年将校ニシテ一朝身ヲ萬里異域ノ海底ニ沈ム痛惜何ゾ堪ヘンヤ[2]。其ノ日、特ニ海軍中佐ニ進メラレ、正六位ニ叙セラ。〕
- ^ 〔 (前略)[5] 此巡洋戰艦と云ふ艦種に於きましては前申ました通り攻撃力及速力に餘りに重きを置き其爲に防禦力を犠牲にしたのが弱點でありまして其結果が大正五年五月三十一日の英獨間の「ジャットランド」海戰に於て現はれました 英の巡洋戰艦「クヰンメーリー」は交戰僅かに十五分ばかりにて撃沈せられ次で間もなく「インデファチゲーブル」も同様の運命に遭遇致しました 我海軍に於きましても次の巡洋戰艦天城、赤城の設計を決定せらるる迄は種々の議論がありまして外國でも非常な大速力を有する艦が出來るから我海軍の巡洋戰艦も之に劣らぬ様な速力が欲しいのでありましたが前記の事柄に鑑み巡戰と雖も防禦を苟にすることは出來ませんから天城級に於ては速力は戰艦に比し幾分の優速を有する位に止め防禦力に相當の注意を拂ふたものが設計せられ横須賀及呉の二工廠に於て陸上工事は相當に進みましたのですが軍備制限條約の爲めに未だ進水するに至らずして航空母艦に變更せらるることになりましたので巡洋戰艦としての要目は申上る自由を得ませぬ。〕
出典
- ^ 世界大戦史後篇 1918, p. 718.
- ^ a b c 忠勇列伝 1917, p. 175原本319頁
- ^ a b c d e f g 宮永 (2015), p. 24.
- ^ 小山内, 宏 著、原田 勝正,針生 一郎,山田 宗睦・編著 編『20世紀の歴史ユトランド沖海戦前後ほか』 27巻、株式会社日本メール・オーダー、東京都品川区、1974年1月1日、548頁。ASIN B01N9URPEI。
- ^ a b 帝国軍艦発達 1924, pp. 6–7.
- ^ 宮永 (2015), p. 35.
- ^ 宮永 (2015), p. 35,52.
- ^ 世界大戦史後篇 1918, pp. 724–725.
- 1 クイーン・メリー (巡洋戦艦)とは
- 2 クイーン・メリー (巡洋戦艦)の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
「HMS Queen Mary」の例文・使い方・用例・文例
- TSO(前HMSO)は、現在は私企業であり、ウィリアムリーグループに属している。
- 仮定法, 叙想法, 仮定法の動詞 《たとえば God save the Queen! の save》.
- スコットランドの女王 《Mary Stuart のこと》.
- 『John and Mary(ジョンとメアリー)』または『John walked and Mary rode(ジョンは歩き、そして、メアリーは乗り物に乗った)』における『and』、等位接続詞である;そして、『will you go or stay?(行くか、いてもらえますか?)』における『or』もそうである
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