1998年 - 2003年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 03:12 UTC 版)
「ジェフ・ハーディー」の記事における「1998年 - 2003年」の解説
1998年に兄弟ともにWWFと契約。初期はジンクス・ブラザーズという覆面レスラーのタッグチームで出場していたがまったく成功せずフェードアウト。以降ハーディー・ボーイズとしてタッグ戦線で世界タッグ王座を5回獲得する活躍をしている。2001年4月10日のSmackDown!にて、トリプルHを破り、当時の最年少記録でIC王座を獲得している。しかし、翌週トリプルHに敗れ、わずか一週間で王座から陥落してしまった。最年少での王座獲得や、相手がトップヒールのトリプルHだったこともあり、本人もこの勝利には思い入れが強い。兄弟でのタッグチーム活動は2002年まで続くことになる。 2002年、ハーディー・ボーイズはRAWデビュー直後のブロック・レスナーの最初の抗争相手を務めたが、レスナーをプッシュするためのジョバーとも言うような役回りであった。ジェフは4月21日に行われたBacklash 2002でレスナーのTVマッチデビュー戦の相手をするも、パワーボムの連発をくらい敗退した。レスナーとの抗争が終わると、ハーディー・ボーイズは前年からの遺恨が残るジ・アンダーテイカーに絡むようになる。7月1日のRAWで行なわれたジ・アンダーテイカーとのラダー・マッチ形式のWWE王座戦は、ジェフのキャリアにおいて、自他共に認めるベストバウトと言う程の高評価を得た。この試合をきっかけにジェフはシングルでの試合が多くなり、2002年7月8日ウィリアム・リーガルからWWE欧州王座を奪うなど活躍した。ジェフが活躍が増えるにつれマットの活躍が少なくなり、それに嫉妬したマットがジェフを裏切りSmackDown!へ移籍、ハーディー・ボーイズは解散した。 2003年、シングルでトリッシュ・ストラタスとのストーリーが展開中であったが、4月22日にWWEを解雇された。解雇の原因は、表向きはバンド活動に専念したいとWWEに訴えが却下され対立したとの発表があったが、実際は精神的に追い詰められドラッグに手を出しリハビリも断ったために解雇されたのが真相である。
※この「1998年 - 2003年」の解説は、「ジェフ・ハーディー」の解説の一部です。
「1998年 - 2003年」を含む「ジェフ・ハーディー」の記事については、「ジェフ・ハーディー」の概要を参照ください。
- 1998年 - 2003年のページへのリンク