陳嘉庚
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陳 嘉庚(ちんかこう、福建語発音:タン・カーキー、普通話発音:チェン・チアコン[1])は、中国・英領マラヤの実業家・政治家。1874年に福建省泉州府同安県に生まれ、1891年にシンガポールへ移住。1909年に本格参入したマレー半島におけるゴム業で財をなし、南洋華僑の巨頭として胡文虎と並び称された。1911年の辛亥革命では福建革命軍政府を支援しシンガポールの福建省出身華人の代表的存在として知られるようになった。教育事業にも注力し、郷里の福建省に1912年以降集美学校、1923年に廈門大学を創設するなどした。世界恐慌によるゴム業の衰退を受けて祖国(中国)救援運動に傾斜し、1938年10月に結成された南洋華僑籌賑祖国難民総会(NCRGA、南僑総会)の主席として国民政府を支援した。政治的には無党無派を旨としたが、1940年以降国民政府への批判・民主化要求を強め、革新的主張から戦後の華人社会からは疎外されて、1949年に中国へ帰郷。その後は郷里である福建省・アモイの開発事業や教育・福利施設の運営に注力した。
- ^ “陳嘉庚”. 中日辞典 第3版. 2022年10月8日閲覧。
- ^ a b 市川 1984, p. 41.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 荒井 1978, p. 361.
- ^ 根岸 (1942, p. 233)集美という小邑の生まれ(同)。
- ^ 市川 (1984, p. 41)。同書では16歳で移住、「順安米穀店」を手伝った、としている
- ^ a b 根岸 1942, p. 233.
- ^ a b c d 根岸 1942, p. 235.
- ^ 英領マラヤのゴム栽培業は、1876年のゴムの樹のマライ植樹の後、シンガポール植物園の主任・リイドレイからの勧めでマラッカ生まれの華人・陳齊賢がゴム園を経営し、数年後に会社がイギリス人に買収されるまでの2年半で資本金・28万銀元が買収価格225千ポンド(資本金の約6倍)となる成功を収めたことを端緒に、各地に広がった(根岸 1942, pp. 233–234)。陳齊賢に続いて、陳嘉庚のほかに林文慶、林義順、曾江水、陳楚楠らがゴム業に参入した(根岸 1942, p. 234)。
- ^ 市川 1984, p. 4.
- ^ 市川 1984, pp. 4–5.
- ^ a b c d e 市川 1984, p. 5.
- ^ 市川 (1984, p. 5)によると、1913年以降
- ^ 根岸 1942, pp. 236–237.
- ^ 根岸 1942, p. 237.
- ^ 根岸 (1942, pp. 236–237)。同書では、建物が威観を呈しているのに比して、専門課程の内容はそれほど充実しておらず、文、理、法、商、教育、国学の各専攻のうち教育と国学は実態がなく、また当初は医科・工科を創設予定だったが、1942年当時に至るまで未実現となっている、と評している。
- ^ 市川 (1984, p. 5)。同書では、創立当時は商学部、師範学部の2学部だった、としている。
- ^ 根岸 (1942, p. 238)p。発行部数は1万8千部で、当初は排日色が強かったが、1932年8月に陳の手を離れ、改組された(同)。
- ^ a b c 市川 1984, p. 6.
- ^ 根岸 1942, pp. 235–236.
- ^ 根岸 1942, p. 236.
- ^ 集美学校の卒業生で星洲ゴム貿易公司の経営者となっていた(市川 1984, p. 7)
- ^ 市川 1984, p. 7.
- ^ 市川 (1984, pp. 6–7)。1936年まで在任(同)。
- ^ a b c 市川 1984, pp. 6–7.
- ^ 市川 1984, p. 8.
- ^ 根岸 1942, p. 238-239.
- ^ 林 2007, pp. 34–35.
- ^ 熱帯文化協会 1941, pp. 13–15.
- ^ SCCRGAは陳のほか陳の女婿・李光前、李振殿らの福建人が主導し、南僑総会も南洋各地の福建人が代表を務めたため、競合他団体との派閥抗争も起きた(市川 1984, pp. 7–9)。客家人だった胡文虎は『南洋商報』の競合紙『星洲日報』を宣伝の場とし、自派の組織ウィークリー・クラブを中心に独自の募金運動を展開、また海峡植民地生まれの華人(中国系2・3世)が海峡華人英国協会(Tan, Bonny Muliani (2000年). “Straits Chinese British Association”. National Library Board Singapore. 2016年6月11日閲覧。)を結成し1世華僑の救国募金運動に批判的立場をとるなどした(市川 1984, pp. 7–9)。
- ^ 市川 1984, pp. 7–9.
- ^ 英国による華人の政治活動弾圧の中で、1938年8月13日にはマラヤ共産党の抗日デモに参加したマ共党員11名が逮捕・国外退去処分となり、1939年末には陳の腹心だった候西反がマ共系の中国民族解放先鋒隊の主席として日貨排斥を指導したとして国外退去となり、1940年4月には共産党系の華僑抗敵後援会が解散に追い込まれた(市川 1984, p. 9)。
- ^ 熱帯文化協会 (1941, p. 15)は、排日運動に乗じて共産党支持者によるストライキが各産業の工場に広がったため、英植民地当局が運動の取締を強化し、陳らは国外退去命令を受けた、としている。
- ^ 1931年当時同委員会主任を務めていた(市川 1984, pp. 9–10)
- ^ a b c d e 市川 1984, p. 10.
- ^ 根岸 (1942, p. 239)では、同年夏。
- ^ 熱帯文化協会 (1941, p. 17)では、5月
- ^ a b 根岸 1942, p. 239.
- ^ a b 熱帯文化協会 1941, pp. 17–18.
- ^ 根岸 (1942, p. 239)。同書では、重慶で汚職のほか、共産党との内部対立を目の当たりにして失望した、としている。
- ^ a b c d e 市川 1984, p. 11.
- ^ 市川 (1984, p. 10)。同大会では国民政府海外部長・呉鉄城の汚職も告発されたが、決議文には盛り込まれなかった(同)。国民政府はこの決議文を受領した後も、1942年まで陳儀を更迭しなかったとされる(同)。
- ^ (熱帯文化協会 1941, pp. 17–18)。同書では、陳が本来の事業の上に新聞を経営し、また中華総商会など公共団体の運営に携わっている上、圧政的な暴威を振るっているため、相当反感を抱いている者も居るのではないか、と指摘し、胡文虎の方が人望があり、日本との関係も深い、と評価している。
- ^ 林 2007, pp. 35–36.
- ^ 荒井 (1978, p. 361)は、占領期間中はスラバヤに逃れていた、としている。
- ^ 林 2007, p. 101.
- ^ 林 2007, pp. 84–85.
- ^ a b c d 市川 1984, p. 12.
- ^ リー (1987, p. 10)は、シンガポールに戻った陳は中国共産党を強く支持し、『南僑日報』を創刊して左派運動の宣伝を始めた、としている
- ^ 市川 1984, pp. 12–13.
- ^ 市川 1984, p. 13.
- ^ リー 1987, p. 10.
- ^ 市川 1984, pp. 13–14.
- ^ a b c 市川 1984, p. 15.
- ^ 根岸 1942, p. 239-240.
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