遠藤純男
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遠藤 純男(えんどう すみお、1950年10月3日 - )は、日本の柔道家(講道館9段)。
注釈
- ^ 後に遠藤は、驚くほど腕力が強かった相手として、ウィレム・ルスカとセルゲイ・ノヴィコフの名を挙げていた[3]。特にノヴィコフは、「左右両方からの早い大外刈を仕掛けてきて、この瞬発力は凄かった」と絶賛している[3]。
- ^ それまでの五輪柔道競技では1度負けても敗者復活戦を勝ち上がっていけば金メダルを獲得する事も可能だったが、遠藤の出場したモントリオール五輪より大会方式が改めれ、敗者復活の場合は最高でも銅メダル止まりとなった[3]。
- ^ 優劣付け難い微妙な試合内容ではあったが、松本安市主審は自信満々に山下側に手を挙げた。「山下泰裕の方が体力的に余裕があった」というのが判定理由[4]。なお、当の山下は「(前回覇者である)遠藤さんの名前勝ち」と思ったという[4]。
- ^ これに先立つ4月21日に、山下泰裕やレスリングの高田裕司らが大会への参加を陳情したが、遠藤は警視庁に勤務する公務員であったためこれに加わる事が出来なかった。当時の心境を遠藤は「苦しかった」と語っている[3]。
- ^ 1979年12月にパリで開催された第11回世界選手権大会で、遠藤は無差別級、山下は重量級で優勝していた。
- ^ 記録上は2勝1分で終えた山下が優勝となったが、この試合の裁定や、以前から危険性が指摘されていた蟹挟という技の是非も含め、大会後には大きな議論を呼んだ。この試合を見ていた戦前の柔道王・木村政彦は後に著書『わが柔道』の中で、「勝負は引き分けとなったものの、山下は遠藤に完敗した」と述べている[6]。なお、蟹鋏はその後のルール改正により女子や国際ルールでは禁止技となった[3]。この試合のインパクトが余りに強かったためか、蟹鋏は遠藤の得意技や代名詞であるかのように言われるが、遠藤にとっては人生で1度きりの技だったという[5]。
- ^ その後、2020年迄に国際ルールでは禁止技に。
出典
- ^ a b c d “よくやった…拍手のウズ “堅くなつたノビコフ戦全力尽くし悔いない””. 力農No.32 (岩瀬農業高等学校同窓会). (1976年10月20日)
- ^ a b c d e f g h 遠藤純男 (2019年6月). “今月のことば -秋田県柔道連盟会長に就任して-”. 講道館公式ホームページ (講道館)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 牛島淳 (2006年10月21日). “転機-あの試合、あの言葉 第50回-遠藤純男-”. 近代柔道(2006年11月号)、40-43頁 (ベースボール・マガジン社)
- ^ a b 赤坂大輔 (2009年4月29日). “19歳の山下泰裕が史上最年少日本王者に”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み-、82-83頁 (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟)
- ^ a b c d 向吉三郎 (2020年4月14日). “山下泰裕に人生一度きりの“禁じ手” 五輪消滅翌日の代表決定戦、当事者たちの証言”. 西日本スポーツ (西日本新聞社)
- ^ 小池徹郎 (2001年11月16日). “創意工夫の柔道 -選手も試合も淡泊すぎる”. わが柔道 -グレイシー柔術を倒した男 木村政彦-、225-229頁 (学習研究社)
- ^ 「再起山下軽く5連覇」『朝日新聞』朝日新聞社、東京、1981年4月30日、17面。
- ^ 『柔道』第53巻第5号、講道館、1982年5月1日、24頁。
- ^ “遠藤純男先生の主な審判をした記録”. 郡山市立小泉小学校公式ホームページ (郡山市立小泉小学校)
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