親族との争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/02 00:33 UTC 版)
「ステファン・ネマニッチ」の記事における「親族との争い」の解説
他方、フム(英語版)を統治していたネマニッチの叔父アンドリヤに対して、フムの貴族はアンドリヤの兄弟ペタルを支配者として擁立して反乱を起こした。ペタルによって追放されたアンドリヤはラスキア(英語版)に逃れた後にネマニッチに保護を求め、ペタルは近隣のボスニア、クロアチア方面での戦闘で勝利を収めていた。ネマニッチは親征を行ってアンドリヤを助け、ペタルを打ち負かしてフムとポポヴォ平原をアンドリヤへ解放した。敗れたペタルはネレトヴァ川を渡り、1203年に一時的にハンガリーの支配下に入っていたネレトヴァ北西部の統治を続けた。 戦後ネマニッチは息子のラドスラヴをフムの統治者とし、アンドリヤにはフムの代わりにポポヴォとストンを含むフムの沿岸部を与え、ラドスラヴの死後にフムをアンドリヤに譲渡する取り決めを交わした。
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