落ち武者狩り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/10 01:25 UTC 版)
落ち武者狩り(おちむしゃがり)は、日本の戦国時代に百姓が自分の村の地域自衛の一環として、敗戦で支配権力が変わった時に敵方の逃亡武将(落武者)を探して略奪し、殺害した慣行である[1]。武将の鎧や刀など装備を剥いで売ったり金品など得たりするためでもあり、「落ち武者襲撃慣行」ともよばれる[2][3]。
- ^ a b 藤木久志 『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』朝日選書 2005年 p.178・179
- ^ 今谷明 1993, pp. 152-153、167、第3章4節「落ち武者襲撃の慣行」
- ^ 今谷明 『戦国の世 日本の歴史〈5〉』 岩波ジュニア新書 2000年 p.153
- ^ a b c d 藤木久志 『戦国の村を行く』朝日選書、 1997年、 p.62-71、97-99
- ^ a b c 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』 講談社選書メチエ 2006年 第4章・p.92
- ^ 柳田国男「日本農民史」
- ^ 藤木久志 『刀狩り 武器を封印した民衆』 岩波新書、 2005年、 p.29・30
- ^ 藤木久志 『戦う村の民俗を行く』 朝日選書、 2008年、 p.6
- ^ 藤木久志 『土一揆と城の戦国を行く』 朝日選書、 2006年、 p.24-27
- ^ 桐野作人『真説 本能寺学研M文庫 2001年』学研M文庫、 2001年、 p.218・219 〈引用史料は『石川忠総留書』〉
- ^ 高柳光寿 『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』春秋社、 1958年、 p.65 〈フロイス『日本史』『日本耶蘇会年報』、日本側史料でも家康が多額の金銀を部下に配分したとある『石川忠総留書』〉
- ^ 今谷明 1993, pp. 157–158.
- ^ 今谷明 1993, pp. 156.
- ^ 鈴木眞哉、藤本正行 『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』洋泉社新書y、 2006年、 p.175-177
- ^ 谷口克広『信長と家康 清須同盟の実体』 学研新書、 2012年、 p.264-270
- ^ フロイス『日本史』1巻p.296
- ^ 『イエズス会日本報告集』Ⅲ-7 p.174
- ^ 藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書、 2001年、 p.164・165
- ^ 藤木久志 『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』朝日選書、 2005年、 p.205-260
- ^ 藤木久志 『刀狩り 武器を封印した民衆』 岩波新書、 2005年、 p.106・107
- ^ 今井林太郎 『石田三成』 吉川弘文館〈人物叢書〉、 1961年、 p.214-216
- ^ 毎日新聞「石田三成:捕縛状況知る貴重史料 歴博で「生捕覚書」公開 長浜/滋賀」2015年3月14日閲覧
- ^ 今井林太郎 『石田三成』吉川弘文館 〈人物叢書〉、 1961年、 p.216
- ^ 桐野作人『関ヶ原 島津退き口 - 的中突破三00里』学研M文庫、2013年、 p.188-189
- ^ 桐野作人『関ヶ原 島津退き口 - 的中突破三00里』学研M文庫、2013年、 p.184-185
- ^ 保谷徹 『戊辰戦争』 吉川弘文館 〈戦争の日本史18〉、 2007年、 p.77-78
- 1 落ち武者狩りとは
- 2 落ち武者狩りの概要
- 3 脚注
- 落ち武者狩りのページへのリンク