祥瑞寺時代 建仁僧堂 瑞祥寺住職
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「竹田益州」の記事における「祥瑞寺時代 建仁僧堂 瑞祥寺住職」の解説
地元堅田の尋常小学校と尋常高等小学校を卒業して、1911年(明治44年)5月に大徳寺山内にあった京都紫野連合般若林に入学し、四年間の寮生活をおくった。同窓に梶浦逸外(後の妙心寺派管長)・林恵鏡(後の東福寺派管長)がいた。1915年(大正4年)4月に京都紫野連合般若林を卒業して、5月8日に建仁僧堂に掛搭し竹田黙雷(左辺亭 臨済宗建仁寺派管長)の鉄鎚を受ける。1918年(大正7年)に堅田祥瑞寺住職となる。その後1919年(大正8年)4月30日祥瑞寺大火。火事の原因は自分の火の不始末によるものであった。それが原因で同年秋には建仁僧堂に再掛搭した。
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