瑞子女王
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瑞子女王(ずいしじょおう、文永9年(1272年) - 元徳元年8月29日(1329年9月22日))は、鎌倉時代の女院。宗尊親王の王女。後嵯峨天皇の孫。後宇多天皇の後宮。院号は永嘉門院。母は堀川具教の娘で、堀川通具の孫女。土御門姫君とも称した。
- ^ 「先故中務卿宗尊親王女瑞子三十歳。後嵯峨院皇孫。母堀川故大納言通具孫女。有准三宮宣下。加賜五百戸于本封外。次有院号定。無立親王及叙品等。凡皇孫女院号無先蹤。是為一院御猶子故云。号永嘉門院。」『続史愚抄』乾元元年一月二十日
- ^ 「中務の宮(宗尊親王)の御女もおしなべたらぬさまにもてなし聞え給ふ。すぐれたる御おぼえにはあらねど、御姉宮(掄子女王)の、故院(亀山院)に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号ありき。永嘉門院と申し侍りし御事なり。」『増鏡』巻十二「浦千鳥」
- ^ 邦良親王の父・後二条天皇の生母は、堀河具守の娘・西華門院基子であり、瑞子女王の母とは同門の縁戚である。また、邦良親王の正妃崇明門院は、瑞子女王の姪にあたる。なお、崇明門院も瑞子女王の養女であったとする説もある(秋山喜代子「永嘉門院」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8 P253.)。
- ^ 瑞子女王への女院宣下も彼女に邦良親王の後見・養育を任せるためにそれに相応しい身位を与える目的であったとする説もある(菊池大樹「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」『歴史学研究』747号、2001年。)。
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