池長孟
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池長 孟(いけなが はじめ/たけし、1891年〈明治24年〉11月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、日本の教育者、美術品収集家[1]。旧姓井上、号は南蛮堂。植物学者である牧野富太郎の研究を経済面で支援した[2]ことでも知られる。谷崎潤一郎とも交流があり、1940年春に自らの美術館の開館式に招いた[3]。
注釈
- ^ 池長植物研究所があった会下山小公園は、地域で「牧野公園」と通称される[16]。
- ^ 石版画に署名「E Chiossone Tokei Giappone 1875」があり、明治8年の作品とわかる。57.6×37.8 cm。た池長孟は、1951年に市立神戸美術館に寄贈、神戸市立博物館に移された[27]。
- ^ 早稲田大学図書館に9枚収蔵され、内訳は「東都名所全図」「真洲先稲荷隅田川眺望」「桜田馬場射御之図」「三囲眺望之図」「自上野望山下」「今戸尾焼之図」「新吉原夜俄之図」「自道権山望鴻台之図」。11×15-12×16 cm[30]。
- ^ 「山塘普済橋中秋夜月」(さんとう ふさいきょう ちゅうしゅう やげつ)は清時代の木版画に筆で彩色した画面である。作風は西洋画の描き方(泰西筆法)に習った。陳仁桑店版。
- ^ 取材した資料がニーホフ著『東西海陸紀行』(地理書)であると明らかにされ、「バタヴィアの町の役人と職人の家」を描いた銅版の挿絵であるという[45]。
- ^ 1帖25枚の版元は以下の資料による [48]。
- ^ 『三県道路完成記念帖』は、郡山市立美術館に貸し出された。1885年(明治18)石版、絹、玄々堂(製造)「開館30周年記念展 1:記録する眼:豊穣の時代明治の画家 亀井至一、竹二郎兄弟をめぐる人々
- ^ 青空文庫の底本:『牧野富太郎自叙伝』第1刷(講談社〈講談社学術文庫〉、2004(平成16)年4月10日)。底本の親本:『牧野富太郎自叙伝』(長嶋書房、1956(昭和31)年12月)。
脚注
- ^ a b c 池長 1942, pp. 12–13, 『美術新報』
- ^ 『黒船』 1941g, p. 34
- ^ a b 〈池長孟関係写真〉“昭和時代前期/1930年代”. 文化遺産オンライン. 2024年2月19日閲覧。 “写真 / 昭和以降、池長孟”
- ^ a b c d e f “『人事興信録』データベース 池長孟”. 名古屋大学大学院法学研究科 (昭和3年(1928年)7月). 2023年11月1日閲覧。
- ^ a b 「【須磨区】須磨ニュータウンで神戸ゆかりの人物シリーズ歴史講座」『神戸新聞』、2015年2月26日。2024年2月19日閲覧。
- ^ a b 2015年2月、須磨区北須磨文化センターで「池長と神戸」を解説する市民講座が開かれた[5]。
- ^ a b 育英高等学校 1999, p. 30
- ^ “池長孟 :: 東文研アーカイブデータベース”. 東京文化財研究所. 2023年12月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g “荒っ削りのコレクター「池長孟(いけながはじめ)」”. ナガジン!. 特集:発見!長崎の歩き方. 長崎市. 2021年5月30日閲覧。
- ^ 育英高等学校 1999, p. 30
- ^ 育英高等学校 1999, p. 31
- ^ 育英高等学校 1999, p. 178
- ^ a b c d 牧野 1956
- ^ 「『南蛮堂コレクションと池長孟』出品目録」より。『年報』 2005, p. 8, 大正7年「写真焼き付け・池長植物研究所開館式」
- ^ a b 神戸市 2024, 「〈東の浅草、西の新開地〉と謳われた新開地エリア」
- ^ “会下山小公園”. www.shintetsu.co.jp. 神戸電鉄. 2024年2月19日閲覧。
- ^ 『20世紀全記録 クロニック』 1987, p. 237
- ^ 『黒船』 1941g, p. 34, 「世界の植物学者牧野富太郎博士と池長孟氏の美談」
- ^ 「メイドに手を付け、女郎屋で散財も……朝ドラには描かれない牧野富太郎の人生が「激ヤバ」すぎた」『プレジデントオンライン』、プレジデント社、2023年10月15日、2頁、 オリジナルの2023年10月26日時点におけるアーカイブ、2023年12月23日閲覧。
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 5–12, 「池長美術館陳列目録」
- ^ a b “池長美術館recollection:美への想いがつなぐもの”. www.kobecitymuseum.jp. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。 “会期は2023-07月22日 ~ 2023年9月10日。”
- ^ 『黒船』 1940a, 写真版・口絵「池長美術館全景と泰西王族騎馬図の前に於ける池長孟氏」
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 2–4, 石黒敬七「池長美術館を観る」
- ^ 1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
- ^ 「聖ザビエル像は神戸市立博物館所蔵」『神戸新聞』(夕刊)2015年2月24日。
- ^ 日本経済新聞 2012年4月17日付。
- ^ “Denkmal Siebold Wurzburg”. 文化遺産オンライン. 2024年2月19日閲覧。
- ^ キヨッソーネ(原画)「勲一等贈正二位右大臣大久保公(像)」大蔵省印刷局、銅版墨摺、明治12年(1879年)。63.7×47.0 cm×37.8 cm、左下にサイン「E Chiossone Tokio 1878」。
- ^ 田村宗立(原画)、京都画学校(石版刷り) (明治14年(1881年)). “有栖川熾仁親王像”. 文化遺産オンライン. 2024年2月19日閲覧。30.3×22.2 cm。画面右下の署名は「S. Tamura」、下の余白の画題は「明治十四年十月京都画学校製」。
- ^ a b c d e f g “亜欧堂田善江戸名所図 / 亜欧堂田善 [画]”. 早稲田大学図書館. 2024年2月20日閲覧。
- ^ a b “三ツ俣真景”. 神戸市立博物館. 小形江戸名勝図シリーズ. 2024年2月19日閲覧。
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 8–11
- ^ 『黒船』 1941a, pp. 26–28, (2)
- ^ 『黒船』 1941b, pp. 41–44, (3)
- ^ 『黒船』 1941d, pp. 30–33, (4)
- ^ 『黒船』 1941e, pp. 31–34, (5)
- ^ 『黒船』 1941f, pp. 31–35, (6)
- ^ 池長は蒐集美術に関するエピソード6編を「余譚」として雑誌『黒船』に記した [32] [33] [34] [35] [36] [37]。
- ^ 『年報』 2005, p. 7
- ^ “吉原楼中図”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。 “美人画をあまり残さなかった北斎には珍しく続き物5枚組である。”
- ^ “生人形浅草奥山”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “大日本金龍山之図”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “摺物 紅毛銅版画”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “UKIE(浮絵):江戸を魅了した、吸い込まれる空間(会期:2022年12月24日-2023年2月12日)”. www.kobecitymuseum.jp. 美術. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。
- ^ “忠臣蔵十一段目夜討之図”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ “コレクターたちの片鱗―池長孟・南波松太郎・秋岡武次郎(会期:2022年10月15日-同年12月4日)”. www.kobecitymuseum.jp. 美術. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。
- ^ “西国名所之内”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
- ^ 神戸市立博物館特別展『神戸開港150年記念特別展:開国への潮流、開港前夜の兵庫と神戸』図録、2017年。神戸市立博物館特別展『よみがえる兵庫津』図録、2004年[47]。
- ^ “英国からはじまる明治日本のスケッチ巡り(会期:2022年8月23日-同年9月25日)”. www.kobecitymuseum.jp. 美術. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。
- ^ a b c “「生粋の神戸人間 池長 孟 の足跡:建物の記憶をたどって」の開催”. 神戸市. 神戸市:文書館企画展. 2024年2月20日閲覧。
- ^ Collection Iquenaga, Osaka, 1933, Vol. I, p. 54.
- ^ 東京文化財研究所 1937, 「(2)慶賀筆ブロムホフ家族図 池長孟蔵」『美術研究』、doi:10.11501/7964167。
- ^ 画像ファイルの注記[51]より『邦彩蛮華大宝鑑 池長蒐集品目録』第2巻p54掲載の作品[52]か(1933年)。
- ^ 東京文化財研究所 1937, 「(2)慶賀筆ブロムホフ家族図 池長孟蔵」『美術研究』1937年5月、第6巻第5号(通号65) doi:10.11501/7964167
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 5–12
- ^ 『黒船』 1940c, pp. 24–28, 「池長美術館蒐蔵品解説(2)」
- ^ 『黒船』 1940a, pp. 2–10, 「南蛮堂要録」
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