松平真乗とは? わかりやすく解説

松平真乗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/27 09:28 UTC 版)

 
松平真乗
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文15年(1546年
死没 天正10年3月14日1582年4月6日
別名 源次郎[1]、左近(左近丞)[1]
戒名 梅香院殿盛巌道翁大禅定門
主君 徳川家康
氏族 大給松平家
父母 父:松平親乗、母:松平信定[1]
戸田忠重
家乗、真次
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松平 真乗(まつだいら さねのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大給松平家5代当主。

略歴

4代・松平親乗の子として誕生[1]

早くから徳川家康(又従兄にあたる)に仕える[1]。永禄12年(1569年)には遠州平定戦に参加引用エラー: 無効な <ref> タグです。数が多すぎるなどの理由で名前が無効です松平清宗に代わって石川家成の指揮下に入り、掛川城の守備にあたる[1]。ついで、遠江国榛原郡の小山城攻めで功績をあげ、榛原郡内で2000貫文の所領を得た[1]

その後も元亀元年(1570年)の姉川の戦い[2]、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いに参加[2]。上杉謙信と徳川家康が交渉を持った際には徳川方の窓口となった[2]。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは真乗に仕える騎馬武者6名が鳶巣山砦攻撃に加わり[2]、戦後は三信国境の武節城の守備に当たった[2]天正8年(1580年)、家康が田中城攻めから帰る帰途に殿を受け持っていたが、持船城から朝比奈信置が襲撃を加えたため、真乗は石川数正とともに反撃を行って破っている[2]

天正9年(1573年)、高天神城攻めに従軍[2]福島為基ら5人を城内に潜入させた。

天正10年(1582年)に37歳で死去した。家督は長男の家乗が継いだ。

脚注

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注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻九「松平 大給」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.49
  2. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻九「松平 大給」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.50




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