曹操に仕える以前の事跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:51 UTC 版)
10代で同郷の楽隠に師事し、楽隠が何苗の長史となると、牽招もこれに随従した。中平6年(189年)、洛陽の動乱の中で何苗と楽隠が殺されたため、他の門下生と共に楽隠の棺を守って帰郷しようとした。しかし、途中で賊に襲われ他の門下生は逃亡してしまった。牽招が棺に取りすがり、見逃すよう泣いて頼んだところ、賊はその義気を認め牽招を見逃した。これにより牽招は名を知られるようになった。若き劉備とも交友があり、「刎頸の交わり」を誓った仲であったという。 その後、冀州の袁紹の下で督軍従事を拝命し、烏桓突騎を兼任した。袁紹死後は袁尚に仕えた。建安9年(204年)、中山郡へ逃れた袁尚のために、袁尚の従兄弟で并州刺史の高幹に救援を求めた。しかし、高幹は曹操にも袁尚にも与しようとせず、牽招を殺害しようと図った。牽招は逃走したが、退路を遮られていたため袁尚の下に戻ることができず、そのまま曹操に降って冀州従事として仕えた。
※この「曹操に仕える以前の事跡」の解説は、「牽招」の解説の一部です。
「曹操に仕える以前の事跡」を含む「牽招」の記事については、「牽招」の概要を参照ください。
- 曹操に仕える以前の事跡のページへのリンク