日本柔道選士権大会
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日本柔道選士権大会(にほんじゅうどうせんしけんたいかい)は、かつて日本で開催されていた柔道の大会。講道館主催、朝日新聞社後援。
注釈
- ^ 昭和天覧試合と同様、専門選士の定義を以下の通り定めた。(1)柔道の教授を生業とする者、または嘗て柔道の教授を生業とした者。柔道教授以外の生業を有するも、警察・学校・会社その他の団体等において専ら斯道の教授に当たる者はこれに準ず。(2)警察官の官職にある者のうち、(イ)平素専ら柔道教授に当たり、他に警察の職務を持たない者。(ロ)臨時または僅少の時間、警察の職務を執る者といえども、平素専ら柔剣道教授に当たる者は前項に準ず。(3)学校(陸海軍含む)の職員で、柔道教授と他の教授とを兼ねる者については、(イ)柔道教授の時間数が他に比べて多い者、(ロ)柔道教授時間の多少に関わらず、柔道教師の教員免許証を有する者はこれを専門家とす。ただし、第1・第3の職にあっても、現在その職にない者は専門家の中に含まず。
- ^ 10月31日時点の満年齢による。
- ^ ただし、当時の新聞などでは専門選士の壮年前期(20~29歳)の部の取り扱いが大きく、やはり血気盛んな若者の部が最も注目されていた事が窺える。
- ^ 1940年は紀元二千六百年記念行事として様々な柔道大会が各地で催されたため、日本選士権は開催が見送られた。
- ^ ブロックによっては特定の部への出場を“該当者なし”として棄権する事もあり、その場合、選士権本大会はそのブロックを除く7人で優勝が争われた。また1931年の第2回大会のみ、満州事変の影響で朝鮮と満州を管轄する第8区からの選手出場は見送られ、一般成年前期の部に8区代表として庄司新三郎3段が推薦出場したのみであった。
- ^ 1930年大会の曽根幸蔵や1931年大会の大谷晃(いずれも専門壮年前期の部)は優勝候補ながら、それぞれ柏原俊一5段と延長4回、島崎朝輝5段と延長3回の末に抽選で涙を飲んだ。
- ^ 10月26日は形の演武・模範乱取・選抜紅白試合が行われ、選士権本大会は27日のみ実施。
- ^ 4月4日は6-8段の高段者による特別試合が行われ、選士権本大会は5,6日で実施。
出典
- ^ a b 村田直樹 (2006年11月22日). “これで君も柔道博士 -第10回:「選手権」と「選士権」は、一体どこが違うの?-”. 近代柔道(2006年12月号) (ベースボール・マガジン社)
- 1 日本柔道選士権大会とは
- 2 日本柔道選士権大会の概要
- 3 脚注
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