御殿・御茶屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 21:37 UTC 版)
御殿(ごてん)および御茶屋(おちゃや)は、江戸時代に将軍や大御所および世子が江戸近郊へ旅行や外出する際に利用するため、江戸幕府が江戸城外の各地に設置した施設である。宿泊用としたものが「御殿」、小規模なものが「御茶屋」とよばれた。
注釈
- ^ 国絵図は、江戸幕府が諸大名に命じて作成させた国ごとの地図であり、正保元年(1644年)の命下によるものを「正保国絵図」、元禄9年(1696年)の命下によるものを「元禄国絵図」と称した[2]。
- ^ 当時幕府の財政が窮乏していたことは、幕府が江戸城の再築に多額の費用を要し、日光社参への支出が容易でなかった事が大島延次郎により論証されていることからもうかがえる[3]。
- ^ 府中崖線(ハケ)の上にある。
- ^ 「旧蹟 御殿跡 妙光院の西方にあり、東北は平地につづき、西南は三丈ばかりの高崖にして眺望よし、その下は水田なり、廣さおよそ百歩許の丘皐なり、此地は太古当国の国造住し旧蹟なり」[5]
- ^ 「抑々この地に御殿御造営の初めは、小田原落城後豊臣太閤より関八州の地を参らせしより、神君御坐城の地を卜し給いて江城に御定めあり、近国并に近郷の工匠に命じ給いて江城御修理の砌、府中、川越に畋猟(でんりょう)の設けをなして旅館を造営すべし、府中は古えより府庁の地と兼ねて聞召されければ、その旧地へ営むべき旨の台命あり。その頃太閤奥州下向ありしかば、帰陣の前に造畢すべしとて、近隣近里の大匠へ御下知ありて、不日にして御殿造畢すと云」
- ^ 慶長15年(1610年)10月16日に滞在。
- ^ 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在した[9]。
- ^ 1646年の大火により焼失したもの。
- ^ 武蔵国府跡に包括。
出典
- ^ a b c d e f g h 中島義一「徳川将軍家御殿の歴史地理的考察(第1報)-南関東の場合-(多田文男先生喜寿記念)」」『駒澤地理』14号、駒澤大学、1978年、177-197頁。
- ^ 中島新吾「対馬藩の元禄国絵図について」『対馬歴史民俗資料館報』第25号、対馬歴史民俗資料館、2002年。
- ^ 大島延次郎「日光社参」『日本交通史論叢』国際交通文化協会、1939年。
- ^ 新編武蔵風土記稿 石戸宿村 御茶屋蹟.
- ^ 新編武蔵風土記稿 府中宿本町御殿跡.
- ^ 府中市史談会7月講座「府中御殿について」
- ^ 家康の府中御殿と江戸入りの頃
- ^ “家康の鷹狩りを再現「府中市の武蔵国府跡御殿地地区で」”. msn産経ニュース. (2012年11月24日)[リンク切れ]
- ^ 「国司館・府中御殿遺跡の保存決まる」『府中かんきょう市民の会々報』2010年秋号。
- ^ “家康のタカ狩り御殿発見か 東京・府中で遺構発掘”. 朝日新聞. (2010年5月14日)[リンク切れ]
- ^ “府中市郷⼟の森博物館だより al museo No.122” (PDF) (2017年12月20日). 2022年4月11日閲覧。
- ^ 御殿坂[リンク切れ]
- ^ 府中ナビ 「お茶屋街道」[リンク切れ]
- ^ 新編武蔵風土記稿 千住町二町目 御殿跡.
- 1 御殿・御茶屋とは
- 2 御殿・御茶屋の概要
- 3 脚注
- 御殿・御茶屋のページへのリンク