弘中 隆兼とは? わかりやすく解説

弘中隆兼(ひろなか たかかね) ????~1555

三河守 中務丞
◇父:弘中興兼 子:弘中隆助(隆守?)
 周防・大内氏臣として安芸守護代を務める。安芸西条槌山城主。陶隆房(晴賢)が当主大内義隆謀反起こした際は、これに協力した安芸毛利氏との戦いにおいて、その謀略受けた晴賢の命で重臣江良房栄殺害する安芸厳島毛利氏戦おうとした晴賢を諫めるが容れられず、同所にて戦死した

弘中隆包

(弘中 隆兼 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 08:10 UTC 版)

弘中 隆包(ひろなか たかかね)は、戦国時代の武将。戦国大名大内氏の家臣。大内義興の家臣で評定衆を務めた弘中興勝(おきかつ、弘中興兼(おきかね)とも)の嫡男。正式な諱は「隆包」だが、父の別名の一字により「隆兼」と表記される場合も多い(後者は誤りというよりは別表記として伝わっているものである)。


  1. ^ a b 白崎八幡宮の由緒 - 白崎八幡宮公式サイト
  2. ^ a b c d e f g h i 毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男(著:吉田龍司 2010年 新紀元社
  3. ^ 東広島市指定史跡 槌山城跡説明板(槌山城 (東広島市) - 広島県のお城)。
  4. ^ a b c d 戦争の日本史12 西国の戦国合戦(著:山本浩樹 2007年 吉川弘文館
  5. ^ 歴史群像シリーズ49 毛利戦記(1997年 学習研究社
  6. ^ 嘉年故郷案内図 - 阿東地域交流センター嘉年分館(旧嘉年公民館)
  7. ^ 博奕尾と呼ばれる峰に近い位置に陣を構えていた弘中隊の下山は、同じ方向から攻め下ってくる毛利軍と誤認され、大内軍の混乱を拡大したとも言われている。
  8. ^ a b 歴史群像シリーズ9 毛利元就(1988年 学習研究社
  9. ^ 中津居館跡の概要 - 岩国市教育委員会
  10. ^ 中津居館跡について(一問一答) - 岩国市教育委員会
  11. ^ 岩国にある県内屈指の中世遺跡と、大量の中国の埋納銭 - 元気発信!!「山口きらめーる」2013年3月22日 vol.248号(山口県広報広聴課)


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