しま‐せいいち【嶋清一】
嶋清一
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嶋 清一(しま せいいち、本名:島 清一[1]、1920年12月15日 - 1945年3月29日)は、和歌山県出身の野球選手(投手)。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P3。戸籍上は「島」で、現存する寄せ書きや中学時代の合宿日誌の署名も「島清一」となっている(同書P24、P137に写真掲載)。
- ^ a b 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P57。同書では養子になった詳しい事情は「わからない」としている。養子となった後も中学を卒業するまでは実の両親・2歳下の妹の家族3人と暮らしていた。なお、富永俊治の『嶋清一の真実』(アルマット、2007年)では父の姓も「嶋」で職業は米穀商と記している(同書P23)。『嶋清一 戦果に散った伝説の左腕』が嶋の妹や友人を含む執筆協力者と旧海草中学の資料を含む参考文献を明記しているのに対し、『嶋清一の真実』には執筆協力者や参考文献が記載されていないため、ここでは『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』の記述を採用する。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P80。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P85 - 86。当時嶋は100mで11秒、走り高跳び1m65という記録を残していた。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P87。長谷川は1938年の応召後もハガキでチームや嶋へのアドバイスを続けた(同書P123)。
- ^ 1937年夏と1938年春はいずれも野口二郎を擁する中京商業(現・中京大学附属中京高等学校)に敗退し、1938年春はノーヒット・ノーランに抑えられた。のちに中京OBの杉浦清を監督として招聘するのはこれが原因であったという(『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P45)。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P110、114 - 115。
- ^ “「平成の怪物」松坂を超える戦前の大投手、嶋清一を訪ねて@甲子園歴史館”. hanshin-woman.com. 2023年11月25日閲覧。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P130 - 134。杉浦は1938年に応召した長谷川の後を受けて臨時監督になったが、当時は常駐ではなかった。野球部からの重ねての依頼を受け、高等文官試験の受験を断念して監督に就任したという。
- ^ “「平成の怪物」松坂を超える戦前の大投手、嶋清一を訪ねて@甲子園歴史館”. hanshin-woman.com. 2023年11月25日閲覧。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P186 - 187。この内容は『明治大学野球部史』(1974年)からの引用。古角は大学1年生の時に嶋から「練習するのが嫌になった」「大学の野球部というところはむずかしいところや」といった言葉を聞いたという。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P187 - 188。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P204 - 205。立教大側では西本幸雄が出場した。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P208。嶋は甲子園優勝後に手記を朝日新聞和歌山版に投稿したことがあり、日記を付ける習慣を持つなど文章を書くことが好きであった。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P106、181 -182。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P218 - 219。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P227。
- ^ 作画を担当した川崎のぼるは日刊スポーツ連載コラム・伝説『スポ根アニメの原点 巨人の星』(2009年4月21日~5月2日)の中で、「(花形満のモデルにした)村山実は『巨人の星』のキャラクターの中で唯一存在したモデル」と語っており、飛雄馬についてはモデルはいないことになる。原作者の梶原の見解ははっきりしていない。
- ^ 『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』P186。
- ^ 不世出の投手 嶋清一 ニュース和歌山 2007年3月24日閲覧
- ^ 戦地に消えた投手 讀賣新聞 大阪本社版 2007年8月19日閲覧
- ^ 殿堂ニュース>平成20年 野球殿堂入り決定!! - 野球体育博物館HP、2012年8月10日閲覧
- ^ 殿堂ニュース>嶋 清一氏 野球殿堂入り表彰式開催 - 野球体育博物館HP、2012年8月10日閲覧
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