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岡本城 (下野国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/23 22:41 UTC 版)

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岡本城
栃木県
堀跡
別名 岡本根小屋城[1]
城郭構造 平山城[2]
築城主 岡本富高[3]
築城年 14世紀前期(1337年2月以降)[4]
主な城主 岡本氏、玉生氏
廃城年 1597年(慶長2年)
遺構 本丸、堀、土塁[3]
指定文化財 市指定史跡
位置 北緯36度36分53秒 東経139度57分3秒 / 北緯36.61472度 東経139.95083度 / 36.61472; 139.95083座標: 北緯36度36分53秒 東経139度57分3秒 / 北緯36.61472度 東経139.95083度 / 36.61472; 139.95083
地図
岡本城
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本丸跡

岡本城(おかもとじょう)は、栃木県宇都宮市大字中岡本小字根古屋にあった日本の城14世紀前期(1337年2月以降)[4]築城、慶長2年(1597年)10月13日廃城。別称として岡本根小屋城[1]


歴代城主

城主 生没年 城主の期間
岡本富高 生年不詳
- 観応2年(1351年)12月27日 没
14世紀前期(1337年2月以降?) - 観応2年(1351年)12月27日
岡本正高 生年不詳
- 貞治2年(1363年)8月26日 没
観応2年(1351年)12月28日 - 貞治2年(1363年)8月26日
岡本富武 生没年不詳 14世紀後期
玉生重季 永正7年(1510年)生
- 天文22年(1553年)10月7日 没
天文19年(1550年 - 天文22年(1553年)10月7日
玉生尊宗 大永6年(1526年)正月23日 生
- 天正17年(1589年)11月4日 没
天文22年(1553年)10月8日 - 天正17年(1589年)11月4日
玉生勝昌 天文18年(1549年) 生
- 文禄2年(1593年)11月8日 没
天正17年(1589年) - 文禄元年(1592年)2月
玉生範昌 天正2年(1574年)3月8日 生
- 寛永12年(1635年)4月9日 没
文禄4年(1595年)3月15日 - 慶長2年(1597年)10月13日

沿革

清党岡本氏時代

岡本城は、14世紀前期、芳賀氏[5]岡本氏の当主岡本信濃守富高[6]により、その居城として築かれた。しかし、築城した富高が観応2年/正平5年(1351年)の薩埵山の戦いで討死すると、その跡を継いだ富高の子正高も貞治2年/正平18年(1363年)に武蔵野における戦いで討死し、富高の血統は断絶してしまう。

藤姓岡本氏時代

玉生氏の系図によれば、玉生信濃守富高[7]が、貞治2年/正平18年(1363年)6月17日、武蔵国苦林野の戦いで討死すると、その戦功により、玉生氏は岡本郷を賜ったとある。その後、玉生富高の弟である勝親が、岡本信濃守富武を名乗り、岡本城に入城する。玉生氏は、塩谷氏を出自とする藤原姓の一族であり、富武は、藤姓岡本氏ということになるが、藤姓岡本氏の歴史は不明である。しかしながら、玉生氏の系図によれば、玉生勝定(1459年生~1520年没)の娘が、勝親の子孫であろう岡本重親に嫁いでおり、この事から岡本城は、代々藤姓岡本氏の居城となっていたと考えられている[8]

玉生氏時代

玉生氏が芳賀高経の弟の重季を養子に迎えると、重季は、玉生氏の居城を岡本城に移す。その後、文禄元年(1592年)から同4年(1595年)まで笠間城を居城とした時代もあったが、代々玉生氏の居城となった。しかし、主君である宇都宮家が改易されると、岡本城も廃城となった。

岡本城の縄張と現在

岡本城は、高台になっている台地の角隅に築かれており、方形主郭を台地が突出した最北端に築き、その主郭を、ほぼ"へ"の字型の堀と曲輪を重ねて守る梯郭式の城と考えられている。但し、遺構は主郭周辺によく残っているものの、二の郭以降の曲輪は、長年の開発により時代を経てほとんど壊滅しており、三重堀説と五重堀説があり、議論が分かれている。

また、岡本城の北側約500mのところにも、岡本富高が築いたと伝わる居館跡の土塁と堀が僅かに残っており、名目的には別の城として扱われているが、機能的には、岡本城の出丸として位置づけられていたものと考えられている。

関連項目

脚注

  1. ^ a b 『玉生氏系図』
  2. ^ 宇都宮市教育委員会による現地案内板
  3. ^ a b 児玉幸多 監修坪井清足 監修峰岸純夫、菊池卓『日本城郭大系 第四巻 茨城 栃木 群馬』新人物往来社、1979年、244頁。ISBN 4404010117 
  4. ^ a b 岡本城の具体的な築城年については不明だが、玉生氏の系図によれば、築城した岡本富高の主君である宇都宮公綱が、1337年(延元2年)2月に高師直との戦いで戦功があり、岡本郷を賜ったとあるため、富高が岡本郷を与えられ、岡本城を築いたのは、これ以降だと考えられている
  5. ^ 芳賀氏は清原氏の出であり、清党と呼ばれた
  6. ^ 。但し、同時代の君島氏系図にも「岡本信濃守富高」の名があり、君島氏を出自とする可能性も指摘されており、また、玉生氏系図には、同時代に玉生信濃守富高という人物がおり、岡本信濃守富高と関係性があるのかないのか不明である。
  7. ^ 岡本富高との関係性があるか、単なる同名に過ぎないかは不明。
  8. ^ 但し、岡本重親は清原姓を名乗っており、藤姓岡本氏は、岡本富高の系統を引き継いで、清原氏を名乗っていたと考えられている。



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