尼子再興軍による鳥取城の戦いとは? わかりやすく解説

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尼子再興軍による鳥取城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/26 22:52 UTC 版)

尼子再興軍による鳥取城の戦い(あまごさいこうぐんによるとっとりじょうのたたかい)は、天正元年8月から9月(1573年8月から10月)にかけて、山中幸盛ら率いる尼子再興軍と、毛利方の国人・武田高信率いる武田軍との間に起こった攻城戦である[1]。この戦いによって武田氏は、居城である鳥取城を奪われて没落する。


  1. ^ 『因幡民談記』国主之部「鹿之助鳥取城責事、附高信降参、豊国住鳥取城移事」。『陰徳太平記』巻第四十八「山中鹿助鳥取の城を攻 付 高信降参の事」。『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」に記載あり。
  2. ^ 遅くとも9月27日までに高信は降伏した。「吉川元春書状写/天正元年9月27日/久芳因幡守宛」(『閥閲録117』)ほか。
  3. ^ 『太閤記』では尼子再興軍の攻めにより鳥取城が陥落。高信以下、約200人が討死したとある(『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」)。
  4. ^ 城に籠もっていた武田軍の家老・西郷因幡守ほか長臣等も、人質を尼子再興軍に差し出した。
  5. ^ 『太閤記』によれば、豊国は「この戦いに勝利できたのも幸盛の力によるもの」として、鳥取城の本丸を辞退して2の丸に入り、幸盛ら尼子再興軍が本丸に入った(『太閤記』巻十九「鹿助度量広く武勇にかさ有事」)。
  6. ^ 『因幡民談記』によれば、豊国が天正6年8月に高信を謀殺し、続いて武田一族を滅亡させた(『因幡民談記』国主之部「豊国方便被誅武田高信事」)。


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