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尼子久幸(あまご ひさゆき) ????~1541

○義勝 下野守
◇父:尼子清定 子:尼子詮幸(経貞?)
 出雲尼子氏一族智勇優れた賢将で兄経久が家督を譲ろうとした程であった。重臣も久幸相続賛成したが、久幸自身がこれを固辞したという。安芸毛利氏離反して周防大内氏に与した時、これを攻めようとした当主久に反対諫めたが聞き入れられなかった。結果毛利氏郡山城攻めにて大敗し、この時晴久を逃がす為、殿を務め討死した。


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尼子久幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/03 01:55 UTC 版)

尼子久幸
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文10年(1541年1月13日
別名 源四郎(幼名)、臆病野州、
尼子比丘尼
戒名 光円正清禅定門
墓所 島根県安来市 城安寺
官位 下野
主君 尼子経久・尼子晴久
氏族 尼子氏
父母 父:尼子豊後守源四郎、母:不明
源四郎(夭折)、経貞(詮幸)

尼子 久幸(あまご ひさゆき)は、戦国時代武将尼子氏の家臣。出雲国守護代尼子清定の次男・尼子豊後守源四郎の嫡男。子に源四郎、次郎四郎詮幸がいる。

経歴

享禄3年(1531年)、「尼子氏過去帳」において尼子下野守殿子息が死去したと記されており、法名「源春禅定門」と記される。若くして嫡男を失ったことが確認され、後に父が戦死したために家督継承した詮幸の幼名が、次郎四郎なのも次男だからである。

天文9年(1540年)、大内氏との対立が激しくなり、主君の尼子詮久(尼子晴久)は、豊後国大友氏などの反大内勢力と結託し、大内義隆への圧力を強める。その一環に尼子から大内へと寝返った安芸国国人の毛利元就を安芸国守護武田氏の要請も受け入れ討伐を決定し、久幸もこれに同行した。

はじめは尼子側に形勢は有利だったものの、その多くが尼子の直接配下に居る軍勢ではないため、指揮系統は混乱しやすく敗走を重ね、補給路も確保出来ないまま長期戦へと縺れた。翌天文10年(1541年)の1月、宮崎長尾の戦いにて、大内方の陶隆房(陶晴賢)が尼子本陣を奇襲し、久幸は戦死したとされる(吉田郡山城の戦い)。

久幸の亡骸は毛利氏によって安芸吉田に埋葬された。現在も碑文とともに尼子下野守義勝の墓と供養塔が残っている。月山富田城近隣の城安寺(島根県安来市)にも墓石が残っている。

家督は後に次男の次郎四郎詮幸が継いだ。

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