小岩井光夫とは? わかりやすく解説

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小岩井光夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/13 13:57 UTC 版)

小岩井 光夫(こいわい みつお、1910年明治43年)5月22日 - 1959年昭和34年)2月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐


  1. ^ 盧溝橋事件発生当時、一木清直少佐の指揮する支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊に属していた。
  2. ^ この時、連隊長の楠瀬正雄大佐はマラリアを発病しており、その後ラバウルに後送された。歩兵第144連隊の指揮は第1大隊長塚本初雄中佐がとった。
  3. ^ 一方、砲を処分し傷病者を担送するよう命じられた山砲兵第55連隊第1大隊第3中隊長の高木義文中尉は、砲との決別を潔しとせず処分後自決した。
  4. ^ 支隊長の堀井少将は11月19日、一同と別れ参謀や従卒を連れ筏でクムシ川を下り、途中でカヌーに乗り換え河口から海に出、海路ギルワをめざしたが11月23日に突風でカヌーが転覆、亡くなった。
  5. ^ 11月17日夜、歩兵第144連隊後任連隊長山本重省大佐指揮の、歩兵第144連隊補充員及び山砲兵1個中隊と第38師団の歩兵第229連隊第3大隊が、駆逐艦による輸送でパサブアに上陸し、ブナの救援に向かった。既に駐屯していたブナの守備隊を含め、翌1943年(昭和18年)1月2日に壊滅した。
  6. ^ 12月1日夜、駆逐艦輸送で、バサブア泊地に進入したものの敵襲を受け移動、山県栗花生少将と独立混成第21旅団のうちの425人のみ、北西のクムシ川河口に上陸した。
  7. ^ 12月14日、ブナ地区から90キロほど北西のマンバレー川河口付近に、南海支隊後任支隊長小田健作少将指揮の約870人が上陸、大発で12月20日にギルワに着き、小田少将が、堀井少将亡き後支隊長代理として指揮していた独立工兵第15連隊長横山与助大佐から南海支隊の指揮を引き継いだ。
  8. ^ 後送された歩兵第41連隊の矢沢連隊長は2月5日にマラリアで亡くなった。
  9. ^ この決別電報に驚いた第18軍司令部は「支隊長と緊密な連絡の上、慎重に行動せよ」と返信した。
  10. ^ 電話線に触れなかったのは賢明だった。ガダルカナル島では例外なしに電話線を切断したため、敵に察知されてしまった。
  11. ^ いちはやく脱出した山県少将以下の部隊が全ての舟艇を使用したため、海岸陣地に在った小田少将以下の部隊は脱出用の舟艇が無く、あるものは自決、あるものは敵中突破を図ったが、将校は全員戦死し脱出できたのは下士官以下ほんの数人だった。


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