おばら‐くによし〔をばら‐〕【小原国芳】
小原國芳
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小原 國芳(おばら くによし、1887年4月8日 - 1977年12月13日)は、日本の教育学者。学校法人玉川学園の創立者。永野修身海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。日本基督教団のクリスチャン。また、小原は日本だけでなく、朝鮮半島や満洲、中国大陸、そして台湾などのアジアの各地を広範に歩き回って「新教育」の重要性を説き、伝える役割を果たした。一時期「鯵坂」姓を名乗った[1]。
註
- ^ 川辺郡南方郷久志村→川辺郡西南方村大字久志→川辺郡坊津町大字久志→南さつま市坊津町久志
- ^ 京都市陶磁器試験場初代場長藤江永孝の未亡人で京大生の面倒をよく見た人物
- ^ その言葉の起源は「ワーテルローの戦い」で「ナポレオン・ボナパルト」を破ったイギリスの軍人、「ウェリントン公アーサー・ウェルズリー」が述べた「Educate men without religion and make then but clever devils.(宗教なき教育は、ただ悧巧な悪魔を造る)」という言葉が起源だとされている。但し、全人教育論(玉川大学出版部発行)」によれば「ガリレオ・ガリレイ」が用いた言葉だとしている。
出典
- ^ a b c 創立記念日に想う 学校法人湘南学園、2016年11月29日
- ^ a b 坊津町郷土誌 下 pp.134-135
- ^ a b ランシング先生と小原國芳との出会い学校法人玉川学園、2016.12.20
- ^ 成城学園の開発:小原国芳日本認知科学会 第24回大会 @ 成城大学、2007
- ^ a b c 『教師論』米山弘、p110
- ^ 南日本新聞社『教育とわが生涯 小原國芳』玉川大学出版部、1977年11月1日、186-187頁。「玉川創設の動機は、進学のための予備校に堕した成城高校への不満であった。」「この種の教育ママから脱出したい気持ちが、玉川創設の第二の理由であった。」
- ^ 「成城事件」について日本認知科学会 第24回大会 @ 成城大学、2007
- ^ 南日本新聞社『教育とわが生涯 小原國芳』玉川大学出版部、1977年11月1日、221-226頁。「玉川教育の開花に対するヤッカミが成城関係者にはあった。反小原派が正面に掲げたのは、経理の問題であった。つまり、成城の金を横領したと主張した。(略)最後に反小原派は『横領事件』で小原を告訴したが、結局『不起訴処分』となった。」
- ^ 成城学園五十周年史編集委員会『成城学園五十年』成城学園、1967年9月30日、110-117頁。「学園の教職員、父兄、生徒は二分し、小原派と反小原派と称される二派にわかれて相対立するにいたった。」
- ^ 「小原国芳全集 第25 (教育講演行脚,身辺雑記 第5)」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 山崎亮太郎「今蘇る全人教育 小原國芳」2001年、14頁ー15頁
- ^ 沢木耕太郎「テロルの決算 (p.302)」文春文庫、1978)より。
- ^ 文藝春秋 第56巻、第 3~5号、1978年
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