小倉宮聖承とは? わかりやすく解説

小倉宮聖承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 16:00 UTC 版)

小倉宮 聖承(おぐらのみや せいしょう、応永13年(1406年)頃?[注釈 1] - 嘉吉3年5月7日1443年6月4日))は、室町時代前期の皇族であり、後南朝勢力の中心人物。南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫で、初代小倉宮である恒敦の子。聖承は出家後の法名であり、俗名は不明である。時に「良泰」や「泰仁」とされることがあるが、何れも近世に作られた南朝系図に拠るもので信用できない。樋口宮とも。子に小倉宮教尊がいる[注釈 2]


注釈

  1. ^ 薩戒記』正長元年(1428年)7月8日条に「年廿二三才歟」と見えるので、逆算すれば応永13年(1406年)か応永14年(1407年)の生まれとなる。一方で子息の教尊は『満済准后日記』永享2年(1430年)11月27日条で12歳とされており、逆算すれば応永26年(1419年)の生まれとなる。この場合、親子で年齢が12、3歳しか違わないことになり、いずれかが誤伝である可能性が高い。
  2. ^ 村田正志は「小倉宮の史実と伝説」(『後南朝史論集』所収)で『建内記』などの記載を根拠に「教尊の他になお御子のあったことが確実である」としつつも「確実なる史籍の上では全く判明しない」と結論付けている。
  3. ^ 原文は「小倉殿南方御逐電云々。何事子細哉驚入者也」。
  4. ^ 原文は「小倉宮没落之様。所詮自関東依申子細。伊勢国司令同心則彼国司在所へ入御云々」。
  5. ^ 原文は「就之種々巷説在之由。京都大名内少々同心申輩在之由」。
  6. ^ 『満濟准后日記』永享2年6月9日条によれば、この日、伊勢国知行分の内、一志郡・飯高郡が安堵されている。
  7. ^ 小倉宮の料所は既に護聖院宮に進められており、その代わりに与えるべき替地はなかった。
  8. ^ 江戸時代に書かれた『南朝皇胤紹運録』では「泰仁」とされているものの、根拠は不明。
  9. ^ 伏見宮貞成親王が著した伏見宮家の家譜『椿葉記』ではこの一連の出来事に関連して「御位競望の宮は勧修寺門跡に入室ありて則御出家あり」としており、聖承の行動は自身の子を皇位に上らしめんとしてのものだったという見方が示されている。
  10. ^ 原文は「南北両朝元弘・建武以来不安不休之処、近年無争論止干戈、今已帰皇統自然、天運之理、可云神慮」。

出典

  1. ^ a b 森 1997, p. 27.
  2. ^ 森 1997, p. 128.
  3. ^ 『満済准后日記』永享2年11月27日条
  4. ^ 後南朝史編纂会 1981, p. 132.
  5. ^ 『満済准后日記』永享4年2月29日条
  6. ^ 後南朝史編纂会 1981, p. 94.
  7. ^ 後南朝史編纂会 1981, p. 95.


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