家督を相続できず
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/30 08:37 UTC 版)
しかしながら体が弱く、病がちであった事から旗本としての勤仕を果たせず、この事を本多正信へと言上し旗本の職より離れると江戸に移る。ただ、解任されたわけではなく時折は登城し徳川秀忠の気色伺いをしていたという。 慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)に起きた大坂の陣では冬・夏両陣に供奉し旗本の職分を果たした。しかし、病は癒えることはなく、元和9年(1623年)に父・義定が亡くなった際には江戸幕府も義昌が病がちな事を考慮して跡継ぎに義昌ではなく孫の義等(義昌長男)を指名し、義昌も幕命に異論はなくこれを機に自領の500石を義等に譲り完全に隠居した。
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