大阪湾で開陽丸を探す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「大阪湾で開陽丸を探す」の解説
1868(明治元)年1月6日夜、こうして慶喜らは大坂湾天保山でただちにのりこむつもりで船をさがしたが、以前は泊まっていたはず徳川宗家の軍艦・開陽丸がなく、今は薩摩藩の軍艦を追跡している為だった。。そこでアメリカ合衆国の艦艇に東帰を依頼しようとしたが、あまりに突然なので、まずフランス公使に紹介してもらうのがよいだろうと旗本・山口直毅をお使いにレオン・ロッシュのもとへ遣わすと、ロッシュは快く承諾して紹介状をくれた。慶喜一行がロッシュの紹介状を携えアメリカ合衆国の艦艇に赴くと、フランス公使の紹介があったためか極めて優遇してくれ、酒・肴を出しもてなしてくれた。このときイギリス軍艦がきて、しきりに開陽丸の周囲を乗り回し、艦内を偵察するかのごとくだったため軍艦頭並(副艦長)・澤太郎左衛門が「イギリス艦艇は、高貴な人がこちらにおわすらしいのを疑って、探りを入れているのに違いありません。しばらく隠れておられ給わりますよう」というので、慶喜らはしばらく船室に閉じこもっていた。
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