ヤマトホテル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 17:35 UTC 版)
ヤマトホテルは、かつて南満洲鉄道(満鉄)が経営していた高級ホテルブランド。1907年から1945年まで満鉄線沿線の主要都市を中心にホテル網を展開していた。ヤマトホテル以外の直営ホテルと合わせて満鉄ホテルチェーンと総称された。
- ^ 満鉄は海運業も営んでいた。1908年8月に大連 - 上海の定期航路を開設、1913年10月には香港・広州など中国沿海の都市への定期航路を開設した。1909年7月に社外委託から直営事業に切り替えたが、海運業もまた赤字続きの事業であった。経営効率化のため、1922年までに全ての航路を子会社の大連汽船株式会社に譲渡している。(西澤泰彦 『図説満鉄「満洲」の巨人』 46-47頁)
- ^ 旅館業は満鉄設立時からの正式な業務だった。1906年8月1日に政府から満鉄設立員会へ出された命令書の中で、主要駅に旅客の宿泊・食事に必要な設備を整備するように指示している。(西澤泰彦 『図説満鉄「満洲」の巨人』 19頁)
- ^ a b c 財団法人満鉄会『満鉄四十年史』、520-556頁(満鉄関連年表)。
- ^ ダーリニーホテルは、ロシア統治時代に東清鉄道が建てたダーリニー(後の大連)最初のホテル。客室数16室と小規模ながら、最高の格式を誇るホテルだった。
- ^ a b c 南満洲鉄道『南満洲鉄道株式会社三十年略史』、151-163頁。
- ^ a b 大連星ケ浦命名の由來と滿洲地名考『集』木戸忠太郎 [著] (達磨堂, 1928)
- ^ 川村湊『満洲鉄道まぼろし旅行』による
- ^ a b 帝政ロシアが中国東北部で経営した東清鉄道は、1912年の中華民国成立後は「中東鉄路」、1932年の満洲国成立後は「北満鉄路」へと名称を変えた。1935年3月23日に満洲国が買収。満洲国国有鉄道に編入され、満鉄に経営委託された。
- ^ 「満洲鉄道 食堂車」No.CFSK-0058 中日映画社
- ^ 富田昭次 『ホテルと日本近代』、187-199頁。
- ^ en:Battle of Surabaya
- ^ “李香蘭も魅了されたヤマトホテル 首都・新京では迎賓館として、VIP1000人の大晩餐会を ”. 産経ニュース (2016年11月13日). 2023年6月14日閲覧。
- 1 ヤマトホテルとは
- 2 ヤマトホテルの概要
- 3 直営旅館
- 4 エピソード
- 5 外部リンク
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