大萱窯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 23:29 UTC 版)
1933年(昭和8年)(39歳) - 星岡窯をやめての可児市久々利の大萱古窯跡近くに穴窯をつくる。作陶は豊蔵と長男の武夫、弟子の吉村義雄の三人で行った。最初の窯は初窯で豊蔵自身意識を失って倒れるまで三晩四日かけて焚き続けたが温度が上がらず、瀬戸黒が一碗焼けただけで失敗に終わる。 1934年(昭和9年)(40歳) - 最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作する。 1935年(昭和10年)(41歳) - ようやく満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促すが、豊蔵はこれを辞退し以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶する。
※この「大萱窯」の解説は、「荒川豊蔵」の解説の一部です。
「大萱窯」を含む「荒川豊蔵」の記事については、「荒川豊蔵」の概要を参照ください。
- 大萱窯のページへのリンク