大町の割り出し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:20 UTC 版)
大町の住民は、仙台の創建時、慶長6年(1601年)に岩出山から移転させられた。新しい城下町の建設に際しては、大町通が東西方向の基線とされ、これを基準に他の道路が設定・拡張された。仙台城の大手門から東に行く道は、大橋で広瀬川を渡る。そこから大町頭までは武家屋敷で、その続きが大町となる。大町は城に近い西から東へ一丁目から五丁目に分かれ、五丁目より東には日形町(後に新伝馬町)が続いた。ちなみに南北方向の基線は奥州街道で、大町四丁目で大町と交わる交差点が、芭蕉の辻である。 直行する道路との関係は図の通り。西の端で交わる柳町は、後に移転したため元柳町になった。そのすぐ東では、まず北に大町二丁目横丁が出て、その少し東で南に良覚院丁が出た。次は北に細横丁が出る。現在の晩翠通だが、江戸時代には南に突き通らなかったのでT字路である。次の辻からは、北に荒町通、南に荒町が出た。後に荒町が移転すると道の名は本荒町通、本荒町となった。その次が芭蕉の辻で、北に国分町、南に南町が出た。現在は両方あわせて国分町通である。これが道路としては奥州街道にあたることは上で触れた。奥州街道から一つ東の交差点からは北に糠倉町、南に塩倉町が通じ、東一番丁にあたる。次は北に末無横丁(後に五丁目新丁)、南では少し西にずれたところから南光院横丁(南光院丁)が出た。最後の百騎丁は東二番丁ともいう。現在の国道4号、東二番丁通である。 交差点の角の屋敷は二つの道に面するが、その場合屋敷はすべて大町に属した。そこで、東一番丁のような南北に長い街区は、大町によって切断された。 丁目の境は東一番丁との交差点を境とする大町四丁目と五丁目の境を除き、道路と一致しない。道の途中で丁目が変わった。道路に従って丁目を割り付けるのではなく、岩出山の大町一丁目の住民が仙台に移されたときにまとまって住んだ地区を大町一丁目にした、というような割り付け方をしたのではないかと思われる。。
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