古流柔術で命を賭けた稽古
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:20 UTC 版)
「牛島辰熊」の記事における「古流柔術で命を賭けた稽古」の解説
熊本県熊本市の製油業者の家に生まれる。元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した。熊本では講道館柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んであった。 この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った。これら古流柔術は柔(やわら)をあくまで武士の戦場での殺人武術だと位置づけていた。 まだ全日本選士権がない頃、実質的な日本一決定戦だった明治神宮大会を1925年から3連覇した。
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