内藤家 (信成系)
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内藤家(ないとうけ)は、戦国期に三河国松平氏家臣だった内藤清長の養子内藤信成を家祖とし、江戸時代には譜代大名の棚倉藩主家、ついで村上藩主家[1]、明治維新後華族の子爵家に列せられた家である[2]。
注釈
出典
- ^ 新田完三 1984, p. 831-834.
- ^ a b 浅見雅男 1994, p. 151.
- ^ 「藩翰譜」はその按文で広忠庶子説を紹介しているが、信成を家長の養子とする説(「寛永諸家系図伝」はこれを採る)への批判が述べられるにとどまり、広忠庶子説について「従うべし」とはしていない(『新編 藩翰譜』2巻101頁の按文)。
- ^ a b 新田完三 1984, p. 831.
- ^ このうち信良の異母弟・内藤信全が常陸国多賀郡5,000石を与えられて分家している。
- ^ 『棚倉町史』1巻339頁および344より345頁。正保4年(1647年)の検地帳が残されていることから。
- ^ 『棚倉町史』1巻。348より349頁。明暦4年(1658年)井上市右衛門らによる17ヶ条の献言書があったとしている。
- ^ 『棚倉町史』1巻。寛文の大火に付き354から355頁に採録の「沙汰治帳」、飢饉につき360頁の記述を参照した。引用文は同頁にある「沙汰治帳」の文言に拠る。
- ^ 『福島県史』8巻953より957頁所載、松波勘十郎の名がある「元禄14年6月村改めにつき布令」。松波の登用を元禄2年とするのは『棚倉町史』1巻361頁である。同年に彼が藩に提出した「覚書」があることからの推定。
- ^ 「松波殿御支配之儀ハ御赦免を奉願候」とする『古殿町史』640頁所収の「元禄15年南郷竹貫63ヶ村訴願」。賦役を赦免するかわりに「借替」や「免合」を認めずに賦課を行うこと、また法事や酒食を制限・禁止することへの不満が述べられている。
- ^ 『棚倉町史』1巻375頁。「勘十郎百姓に下され鋸引にいたし」とする「奥州岩代百姓一揆聞覚」の所伝が掲載されている。
- ^ 『柳営補任』1巻15頁。
- ^ 『続徳川実紀』4篇643頁。
- ^ 『復古記』12冊79頁「若松記」によるとしているがその内容は収録されていない。一小隊を「地蔵堂」(現・燕市地蔵堂)に派遣した、というもの。
- ^ 『村上市史 通史編3』は彼の死を「自殺」とし(22から24頁)、また『同 資料編6』近現代行政資料編上巻は、新政府軍への対応を巡り「激しい議論が闘わされた」と推測した上で、信民の自決を両派の対立相克に苦悶した結果とみている(59頁)。しかし藩論が二分されていたことの典拠が不明であり、また彼の自害についてこれを直接に記す当時の記録も存在しない。ただ東京堂出版『幕末明治日誌集成』2巻「北征日誌」第13所載の鈴木乙五郎の嘆願文書に「去月十七日致自傷候様子ニ相聞」とあり(94頁)、藩士の間でそのように認識されていたことがうかがえる。東大史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」はその死因を「病死」と記している。
→また信民の享年および没年月日に関しては「越後村上 内藤家譜」が20歳で明治元年7月16日としているのに対し、これを基に編纂されたと考えられる『諸侯年表』および昭和6年の村上本町教育会編・刊『村上郷土史』では享年19、7月11日卒と記されている。前者は単なる誤記とも考えられるが、後者は女性の名や戒名が記されており、信民の墓所である村上市・光徳寺の過去帳に拠ったとも考えられる。 - ^ 『復古記』14冊44頁。「酒井忠宝家記」に曰くとして、鳥居三十郎ら将兵が城に火をかけ、庄内に逃れたとしている。『新潟県史 通史編6』74、75頁の記述はこれに拠るものであろう。なお雄山閣出版『藩史大辞典』3巻16頁は、鳥居らの降伏を9月27日としているが、『復古記』12冊287頁の「戊辰事情概旨節略」からの記事として9月23日に庄内藩主・酒井忠篤の降伏文書を受け、26日には鳥居らが新政府軍に同行していたことが記されている。
- ^ 『復古記』7冊757より759頁。信親の謹慎を記して家督の継承を訴える村上藩士からの書状が収録されている。また山口重松『我が郷土村上を語る』(村上郷土研究グループ、1978年。昭和11年刊行本の復刻)には信親自身による「懇願書」が採録されている(209より210頁)。しかしどのような経緯でこの文書を入手し得たのかが不明である。
- ^ 小田部雄次 2006, p. 334.
- ^ “藤基神社(新潟県村上市)で江戸時代に描かれた村上藩主・内藤家の肖像画2枚が発見”. 新潟経済新聞. 2020年7月20日閲覧。
- ^ “村上藩主「肖像画」の発見”. 藤基神社. 2020年10月30日閲覧。
- ^ 1925年3月5日に春原を信利に改名。『官報』第3761号、大正14年3月9日。
- 1 内藤家 (信成系)とは
- 2 内藤家 (信成系)の概要
- 3 系図
- 4 脚注
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