共和政・護国卿時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 共和政・護国卿時代の意味・解説 

共和政・護国卿時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 14:37 UTC 版)

アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の記事における「共和政・護国卿時代」の解説

イングランド共和国体制下のランプ議会1652年アシュリー追加議員として承認した。しかし彼が議会の中では長老派であったこと(これは当時保守派非主流意味した)、及び国王軍一時加わっていたことなどからあまり厚遇されず、したがって発言力大きくなかったこうした穏健派議員達に目をつけたのが、亡命中のチャールズ(後のチャールズ2世)である。チャールズ再三アシュリーらに手紙国王復帰の途を打診してきていたが、アシュリーにべもなく断った当時はそれが当然の反応であり、チャールズもこの時のことを根に持ったりはしなかった。 情勢大きく動いたのは護国卿オリバー・クロムウェル死後1658年)である。クロムウェル息子リチャード・クロムウェル四分五裂の状態にあった国論をまとめきれず引退し共和政続けようとするランプ議会国王復帰を願う勢力短く激しく対立したアシュリー穏健派ランプ議会見限り当時スコットランド方面軍司令官だったジョージ・マンク(後のアルベマール公爵)に働きかけて軍を動かしたスコットランド軍がツイード川渡ってイングランド南進始めたのが1660年1月2日マンク軍がロンドン制圧したのが2月11日であった。ここにいたって議会自主解散決めた3月16日)。これをみたチャールズ4月25日ブレダ宣言発しイングランド側も5月8日にこれを受諾した足掛け22年及んだ清教徒革命三王国戦争)は、ここに幕を下ろした

※この「共和政・護国卿時代」の解説は、「アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の解説の一部です。
「共和政・護国卿時代」を含む「アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の記事については、「アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「共和政・護国卿時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「共和政・護国卿時代」の関連用語

共和政・護国卿時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



共和政・護国卿時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS