西行
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西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉- 文治6年2月16日〈1190年3月23日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)[1]。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位[1]。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。
注釈
- ^ 河南町弘川(地図 - Google マップ) ※該当地域は赤色で囲い表示される。西行の墓と伝えられる「西行墳」も区域内(弘川寺境内)にある。
- ^ 竜池山 弘川寺(地図 - Google マップ) ※該当施設は赤色でスポット表示される。
- ^ 鴫立沢(地図 - Google マップ) ※該当地域は赤色でスポット表示される。画面を拡大すれば近くにある鴫立庵もスポット表示される。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 植村雅史「中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(上) : 隠遁者西行,その生涯からみる死生観」『駿河台大学論叢』第48号、駿河台大学、2014年、105-132頁、doi:10.15004/00000075、ISSN 0914-9104、NAID 110009872013、2021年7月1日閲覧。
- ^ a b “生誕900年 西行展/理想移す多彩な肖像/歌と旅の生涯 ルーツの和歌山で”. 毎日新聞 東京夕刊: p. 6面. (2018年11月12日)
- ^ a b c d e 植村雅史「中古末法期から紐解く現代社会の死生観序説(下) : 隠遁者西行,その生涯からみる死生観」『駿河台大学論叢』第49号、2015年1月、43頁、doi:10.15004/00001313、NAID 120005578382、2021年7月1日閲覧。
- ^ “「わかやま何でも帳」を活用するために”. 和歌山県. 2020年11月8日閲覧。
- ^ 「さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋ゆゑとぞ承る。申すも恐れある上臈女房を思ひ懸け進ぜたりけるを、阿漕の浦ぞといふ仰せを蒙りて思ひ切り、官位は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽栄は秋の夜の月西へとなずらへて、有為世の契りを遁れつつ、無為の道にぞ入りにける。阿漕の歌の心なり。伊勢の海あこぎが浦に引く綱も度かさなれば人もこそ知れ」(源平盛衰記、巻第八)
- ^ 出原博明「西行の出家と歌」(桃山学院大学人間科学、No.20、2000年)P.12
- ^ 谷口耕一「撰集抄の構造 - 西行仮托説話の発想と傾向をめぐって[1]」
- ^ 三上景文『地下家伝 第14-20(日本古典全集 ; 第6期)[2]』(日本古典全集刊行会、1937年)
- ^ 小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小学館『精選版 日本国語大辞典』. “鴫立沢”. コトバンク. 2019年7月6日閲覧。
- ^ 『東海道鉄道遊賞旅行案内』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ “鴫立庵”. 大磯町 (2018年). 2019年7月27日閲覧。
- ^ 小松和彦『異界と日本人 絵物語の想像力』角川選書、2003年
- ^ 初田亨『職人たちの西洋建築』(ちくま学芸文庫、2002年)pp157-158。
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