伊勢国分尼寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 00:38 UTC 版)
尼寺跡は、僧寺跡の東側の国分町集落辺りに推定されている。現在までに遺構は見つかっておらず、寺域・伽藍は不明。 国分町光福寺に残る「伊勢国分寺陳跡碑記」(享和2年(1802年)建碑)では、金光明寺(僧寺)を「南院」、法華寺(尼寺)を「北院」と称したと見え、それぞれ「南院」は国分町南浦付近、「北院」は国分町集落付近に推定されていた。その後の調査で、「南院」は白鳳寺院の遺跡(大鹿廃寺跡)と判明したが、「北院」でも瓦が大量に出土し、こちらが尼寺跡にあたると推測されている。 なお、鈴鹿市加佐登町では奈良時代中頃の3基の瓦窯跡(川原井瓦窯跡)が見つかっているが、これは伊勢国分尼寺の瓦のための窯であったと見られている。
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