京都府画学校出仕
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明治14年(1881年)4月、幸野楳嶺に代わり京都府画学校の北宗担当の副教員(教授職)となり、明治21年(1888年)まで務めた。松年は才気に勝り気性激しく、同時期の画家としばしば争った(後述)が、一方で豪快な中にしみじみとした人情味もあり、画学校で教授を務めた時も生徒の受けは非常に良かったという。明治15年(1882年)第一回内国絵画共進会に「蘇東坡図」「老松図」を出品し褒状を受け、明治17年(1884年)同第二回展も銅賞。更に翌年の第四回京都博覧会で発表した「蓬莱山図」で妙技賞銅牌を受け、日本美術協会にも出品した。
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