中世の上伊敷村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:17 UTC 版)
「伊敷 (鹿児島市)」の記事における「中世の上伊敷村」の解説
古くは伊敷として下伊敷(現在の下伊敷)と共に1村であったが、南北朝時代頃に伊敷村は上下に分割されたとされる。 上伊敷村という地名は南北朝時代より見え、薩摩国鹿児島郡のうちであった。正平13年(1359年)の島津氏久宛行状に「鹿児島郡内上伊敷村地頭職」と見えるのが上伊敷の地名の初見であると考えられており、この宛行状により山田忠経に宛がわれた。同年には上伊敷村及び下田村(現在の下田町)の地頭職が山田忠経に宛がわれた。永享11年(1439年)に島津持久によって鹿児島郡上伊敷流田三段が諏訪大明神に寄進されている。
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