並河易家とは? わかりやすく解説

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並河易家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 06:01 UTC 版)

並河 易家(なびか[1] やすいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将明智光秀の家臣。通称は兵庫介、後に掃部介。並河因幡守宗隆の弟[2][3]


  1. ^ 言経卿記』に「ナヒカ」のルビが記載される(谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、318頁)。
  2. ^ 「並河家由緒書」。
  3. ^ a b 亀岡市教育委員会編『丹波笑路城発掘調査報告』亀岡市教育委員会、1978年、28頁。
  4. ^ 在・京都府亀岡市大井町並河。
  5. ^ a b c 『土佐諸家系図』並河系(図)、東京大学史料編纂所蔵。
  6. ^ 攝津国嶋下郡宇野辺村「堺屋 山野治右衛門・山野嘉七朗文書」(『萬字屋書店古書目録』77号、2007年4月、16頁)。
  7. ^ 元亀4年3月7日、信長は、丹波の宇津が幕府の御供衆に加えられた、内藤は力なくそうせざるを得なかったのだと、細川藤孝に歎いている(「細川家文書」、奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館、1988年、615頁〈364〉)。
  8. ^ 奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館、1988年、34頁(515)、41頁(520)。
  9. ^ 下村信博『戦国・織豊期の徳政』吉川弘文館、1996年、57-65頁、史料D・E。
  10. ^ a b 齋木一馬、染谷光弘校訂『史料纂集 兼見卿記 第一』続群書類従完成会、1971年。
  11. ^ a b 『丹波家興敗畧記 巻之上』早稲田大学図書館蔵。
  12. ^ a b c 石田晴男・今谷明・土田将雄編『綿考輯録 第一巻藤孝公』汲古書院、1988年、108-110、125頁。
  13. ^ 仁木宏「明智光秀の丹波統一」、柴裕之 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第八巻 明智光秀』戒光祥出版、2019年、210-211頁。ISBN 978-4-86403-321-3(初出:『新修亀岡市史』本文編2、亀岡市、2004年、第三章第一節)。
  14. ^ 『増補筒井家記』乾、『大日本史料』11編1冊477頁。
  15. ^ a b c 「安永三年小浜藩家臣由緒書」並河久左衛門、小浜市史編纂委員会編『小浜市史 藩政史料編2』小浜市役所、1985年、135頁。
  16. ^ a b 『蜂須賀家家臣成立書并系図』、徳島大学付属図書館蔵。


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