上杉吉憲とは?

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上杉吉憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/12/02 07:55 UTC 版)

上杉 吉憲(うえすぎ よしのり、1684年12月14日貞享元年11月8日)- 1722年6月14日享保7年5月1日))は、出羽米沢藩の第5代藩主。4代藩主・上杉綱憲の長男。母は側室茨木氏(清寿院)。幼名勝千代。正室は黒田綱政の娘。継室は鍋島吉茂の養女(婚約中に死去)。側室は山中氏と山本氏。子は上杉宗憲(長男)、上杉宗房(次男)、畠山義紀(三男)、上杉重定(四男)。官位は従四位下。民部大輔。侍従。

経歴

庶子ではあったが、正室・栄姫(紀伊藩主徳川光貞の娘)に子がなかったので、その養子となり喜平次と改名し、正式に世子となった。元禄11年(1698年)11月28日、元服し、従四位下民部大輔に叙任。将軍徳川綱吉の諱一字を賜わり、吉憲を名乗る。元禄16年(1703年)8月21日、父の隠居により家督を継ぎ藩主となる。同日、侍従兼任。

宝永元年9月(1704年9月)、家督継承後早々に江戸幕府より江戸城半蔵門清水門の石垣普請を命じられた。宝永2年(1705年)に米沢藩に初入部、またこの年に片山元僑を米沢藩に招く。享保4年(1719年)には弟・上杉勝周に1万石を分与して支藩である米沢新田藩を立藩させた。先述の普請などもあって藩財政の窮乏が進み、参勤交代の費用にすら事欠く有様で、享保5年(1720年)の参勤交代の際には藩士の俸禄100石中の300文、人別銭100文を徴収して江戸への路費にあてる始末であった。また藩士も窮乏し、正徳年間には既に中級武士の馬廻組の中に家財を売って、細工物をして生計をたてるものも多くなる。

享保7年(1722年)、39歳で死去。法号は樹徳院殿法印権大僧都泰心。墓所は米沢市。後を長男・宗憲が継いだ。

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