三峰山の戦いとは? わかりやすく解説

三峰山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 05:09 UTC 版)

三峰山の戦い(さんぽうざんのたたかい)は、1232年鈞州三峰山(現在の河南省許昌市禹州市)で行われた金朝モンゴル帝国との戦闘モンゴル帝国の大勝に終わり、金朝の衰退を決定づけた。騎兵2万・歩兵13万、計15万の金朝の大軍はトルイ率いる約4万のモンゴル軍に大敗。主力を失った金朝はモンゴルに対抗する術をなくし、程なくして首都の南京開封府を落とされ滅亡した。


注釈

  1. ^ チンギス・カンは臨終直前に対金攻略の方策を助言し、潼関を避けるために南宋に道を借りるという遺詔を残した。
  2. ^ チンギス・カンの後継者と目されていたトルイは、この戦勝から帰還する途上で急逝した[5]
  3. ^ 完顔陳和尚の武人らしい潔い態度は、モンゴル陣営からも称賛された。
  4. ^ 南宋の権工部尚書の趙范中国語版は、「かつて北方から興った金朝と結んで遼を挟撃したことがあったが、それは結局災禍を招いただけであった」と述べ、同盟に慎重な意見を進言した。反面に、趙范の弟であり淮東制置使の趙葵中国語版は、「現国家の兵力は十分ではなく、しばらくモンゴルと和して、国力が充実したら徽宗欽宗の恥をそそいで中原を回復すべし」と主張し、趙葵の意見が通った[9][12]

出典

  1. ^ 『金史』巻17, 哀宗紀上 正大九年正月丁酉条による。
  2. ^ 『元史』巻1, 太祖紀 二十二年七月己丑条
  3. ^ 『宋史紀事本末』巻90, 紹定四年七月条
  4. ^ 『元史』巻121, 按竺邇伝
  5. ^ a b c d e f g h 杉山(2008)pp.121-122
  6. ^ 『聖武親征録』
  7. ^ 『金史』巻112, 完顔合達伝
  8. ^ 『金史』巻112, 移剌蒲阿伝
  9. ^ a b c 梅村(2008)pp.423-431
  10. ^ 佐伯(1975)pp.315-316
  11. ^ 河内(1989)pp.235-237
  12. ^ 『続資治通鑑』巻167, 紹定六年十一月条


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