三峰山の戦い
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三峰山の戦い(さんぽうざんのたたかい)は、1232年に鈞州三峰山(現在の河南省許昌市禹州市)で行われた金朝とモンゴル帝国との戦闘。モンゴル帝国の大勝に終わり、金朝の衰退を決定づけた。騎兵2万・歩兵13万、計15万の金朝の大軍はトルイ率いる約4万のモンゴル軍に大敗。主力を失った金朝はモンゴルに対抗する術をなくし、程なくして首都の南京開封府を落とされ滅亡した。
注釈
- ^ チンギス・カンは臨終直前に対金攻略の方策を助言し、潼関を避けるために南宋に道を借りるという遺詔を残した。
- ^ チンギス・カンの後継者と目されていたトルイは、この戦勝から帰還する途上で急逝した[5]。
- ^ 完顔陳和尚の武人らしい潔い態度は、モンゴル陣営からも称賛された。
- ^ 南宋の権工部尚書の趙范は、「かつて北方から興った金朝と結んで遼を挟撃したことがあったが、それは結局災禍を招いただけであった」と述べ、同盟に慎重な意見を進言した。反面に、趙范の弟であり淮東制置使の趙葵は、「現国家の兵力は十分ではなく、しばらくモンゴルと和して、国力が充実したら徽宗・欽宗の恥をそそいで中原を回復すべし」と主張し、趙葵の意見が通った[9][12]。
出典
- 1 三峰山の戦いとは
- 2 三峰山の戦いの概要
- 3 概要
- 4 脚注
固有名詞の分類
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