ポンディシェリーの海戦とは? わかりやすく解説

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ポンディシェリーの海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/11 02:57 UTC 版)

ポンディシェリーの海戦(ポンディシェリーのかいせん、英語: Battle of Pondicherry)、またはポルト・ノヴォの海戦(ポルト・ノヴォのかいせん、フランス語: Bataille de Porto Novo[2]七年戦争および第三次カーナティック戦争中の1759年9月10日インドポンディシェリー沖で生起した海戦。ナーガパッティナムの海戦に続いて、ジョージ・ポコックのイギリス艦隊とアンヌ・アントワーヌ・ダシェのフランス艦隊の3度目の戦闘である。


  1. ^ a b c d e Clowes 1897, p. 199.
  2. ^ a b c d Castex 2004, p. 183.
  3. ^ a b c Zysberg 2002, p. 273.
  4. ^ Castex 2004, p. 180.
  5. ^ 艦隊の編成はCastex 2004, p. 180より。
  6. ^ フランス東インド会社は貿易会社だけでなく、フランスの国益を保護する務めもあった。そのため、会社の艦船は平常時でも武装しており、また会社はインドの王族と外交協定を結ぶ権利、武力でお金をせしめる権利、平和維持の権利もあった。七年戦争を通して、会社は100万リーブル以上をアジア艦隊に使い、フランス海軍を大幅に増強した。
  7. ^ a b c Castex 2004, p. 182.
  8. ^ 「東インド会社の船」を指す。
  9. ^ フランス東インド会社の船は戦時中では武装して、商売敵(例えば、イギリス東インド会社やオランダ東インド会社)と私掠船と戦っていたが、平時は武装を減らして貨物を多く積載する。ただ、このような商船でも海賊対策や現地の王族との交渉のために大砲が必要だった。
  10. ^ a b Clowes 1897, p. 198.
  11. ^ Taillemite 2002.
  12. ^ 出典はCastex 2004, p. 183。ただし、Castexはその歴史家の名前を挙げなかった。
  13. ^ Zysberg 2002, p. 274.
  14. ^ なお、この時期のセポイはすでにヨーロッパ式の兵器と訓練を受けていた。Zysberg 2002, pp. 273–274.
  15. ^ Villiers & Duteil 1997, pp. 105–106.
  16. ^ Meyer & Béranger 1993, p. 235.


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